すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

遊びがいのある風よ

2009年07月10日 | 雑記帳
 昨夜からの強い雨は上がったが、今朝はかなり激しい風が吹いている。
 駐車場で車を降りてみると、歩くのにも少し抵抗があるほどだ。
 登校してくる子どもたちも、
「進めない」「息ができない」と口ぐちに言う。

 小雨交じりだったが、傘は当然だめ。しかしわざと広げてあそぼうとする子がいるのはいつもの風景だ。
 少し濡れているが校舎前のグラウンドの土の渇きは早く、使える状態になっているようだ。そこに目をやった一人の男の子、まるでこの強い風を待ちわびていたかのようにこう言い放った。

 「ああ、遊びがいのある風だなあ」 

 そうだよ、やはり男の子はそうでなくては。
 風が強いことで何か心騒ぎ、いつもよりテンションをあげて遊べる気持ちはよくわかるなあ…。寄る年波か、最近遊びがいのあるものって無くなっているなあ、と一つため息。

 それはともかく、教室にランドセルを置いて、すぐさまグラウンドへ駆けだす男子の一団。いつもより声も大きく、高く響いてくるようだ。

 それにしても、プールに敷いた人工芝もめくりあがり、へちま栽培のための支柱も倒すほどの強い風だ。まだまだ止みそうにない。
 外遊びの子どもたちも益々夢中になっているが…。重石で支えてはいるサッカーゴールも少し心配なほど揺れているなあ、と思っていると…かくして、そこに非情の校内放送が流れる。

 「グラウンドで遊んでいる人たちは今すぐ・・・・・」

 

義体としての自己を生きる

2009年07月08日 | 読書
 荻上チキは初めて目にした名前だったが、ネットで検索してみたら、結構注目を集めている若手の批評家であるようだ。
 講談社のPR誌に面白い表現をしている。

 あらゆる身体は義体である 
 ほおっ、義手、義足は聞いたことがあるが、義体とは。
 広辞苑にもないし、「義」の意味を調べてみても「人体の一部を代用とするもの。『義手・義歯』」と記されているではないか。

 人体全部を対象とするのは辞書的には間違いだろうが、なんとなくわかるような気もする。つまり、道具を持つことによって、手が義手になるイメージが発展していくことで、人体のほとんど、動きが制御されていくということを表すだろう。
 アニメ用語?としては「義体化」があった。

 荻上は、新しい道具や技術特にメディアの進歩、発明によって人の身体はその度に変化するという。また新しい身体への変化を怖れてはいけないという立場のようだ。
 それを「社会的身体」という言葉で括ればそんな気もしてくるが、「≒」で結んだ「義体」だとすれば、はたしてそれはどんなふうに幸せと結びつくものか、ふと立ち止まってしまう。
 つまり、道具が、メディアが、身体を支配しているイメージが湧いてしまう。

 しかし道具やメディアが、自分というものを作り上げてきたこともまた事実であろう。そうだとすれば、それらとは違う、またはそれらを乗り越えた体験、経験の蓄積をどれだけ意識できるかが、生身の残存割合を示すものとなるか。

 そのことが甚だ心もとない自分は、荻上言うところの「義体としての自己を生きていく」ことを突き詰めてみるしかないだろうか。
 義体であれば老化も関係ないはず、などとくだらない考えも浮かぶ。

「命の教室」という意味

2009年07月07日 | 読書
 久しぶりに児童書を読み入った。

『命の教室 動物管理センターからのメッセージ』(池田まき子著 岩崎書店)

 本県にある施設が取り上げられている本である。数年前本校で出前授業を行った経緯があり、子どもの感想文が載せられたこともあってか、著者からの贈呈という形で学校に届いたものだった。

 動物管理センターとは、保健所から送られてくる犬を収容し、結果多くを「殺処分」する施設といっていいわけだが、その施設が始めた「命の教室」という出前授業の記録がもとになって、この本ができた。

 ある大切なことをわからせるためには、それを言葉で発して耳に届けても、目に届けても、そこから中に入っていくために、手や足や皮膚や鼻や…そうした身体全体で受け止めさせる活動が強い役割を果たすという自明のことを改めて考えさせられる。
 その意味では、すばらしい教育実践の記録としても読めると思う。

 もちろん児童生徒向けのやさしい表現ではあるが、エピソードの多くは胸に迫ってくる。
 犬が大好きで就いた仕事が、安楽死処分を手伝うことであったという保坂さん、その仕事を辞めずに務め上げるという気持ちとは、いかほどであったか。
 子どもたちに生き方を考えさせる中で、自らの生き方を問い直し、県職員を早期退職して新しい道に踏み出した坂本所長、今からでも遅くないと夢を手繰り寄せる気魄に頭が下がる。

 犬や猫の殺処分を発端に、命の尊さのメッセージを訴える内容には違いないが、「命の教室」の意味が、関わった人々の生き方と幾重にも重なっていると、私には読みとれた。

亀有派出所ではありません

2009年07月05日 | 雑記帳
 町内の議員さんの後援会が出している会報のようなものを見ていたら、ちょっと違和感のある表現があった。

 ~体験発表で高橋、佐藤の両さん~
 (※名字は仮名である)

 「両さん」はちょっと聞かないよなあ、両氏とか両名とかなら…と考えて、なぜ「両さん」という言い方はしないのか気になってきた。
 日常使われている言い方は「両氏」「両名」「両人」、それから「両君」も使うようにおもう。
 使われていないと考えられるのは、「両さん」「両様」「両ちゃん」か。

 「両」という言葉は少し見下す表現なのかな、という気がしてくる。
 ここで辞書を頼って…
 「くん」と「さん」に辞書の意味として大きな違いはないように思う。
 「さん」は「さま」からの転であることはわかるので、同じと考えてよい。

 もしかしたら、熟語の作り方に関係がある。両は音だから、重箱読みのものがないのだとか…。
 いや、そんな決まりがあるものかどうか。
 漢和大字典などを見てもほとんどが今まで調べたことと変わりない。

 ふと、その隣にある「数え方の辞典」が目について、待てよと思った。
 
 結局それは「人」の数え方ではないのか。

 「人」の項をみると、「人」「名」「氏」がある。「方(かた)」も該当するかな。
 そのほかの「口」「個」「体」「頭」はともかく、ぴったりだ。
 ということは、「両君」という言い方が特殊なだけ、と考えた方がいいだろう。

 両が人に付く場合は、助数詞を使うのが原則である。

 悩んだ結果のささいな学習になった。

落語は音であり

2009年07月03日 | 雑記帳
 コラムニストの堀井憲一郎が、こんなことを書いていた。

 演者にとって落語は音であり、観客にとっても音である。

 はああん、とこれで少し合点がいったことがある。

 先月、林家三平の襲名披露興行を聴きにいったときに、「やはり小朝は上手いなあ」と感じたのは、やはり音、声が持つ要素が大きいのだろうなあということである。小朝は何度となく聴いているが、構成の巧みさとともにあの艶っぽい声の魅力、早口になっても言葉がしっかりとらえられる滑舌のよさ、それらが魅力といえる。

 正蔵も結構聴いているが、あのざらついた声は個性的ではあるが、今一つ情感に乏しい感じがする。その意味で、弟のいっ平には実は期待していた。声の抜け?がいいような気がしていたからだ。
 だから、「爆笑王」林家三平の名を継いでも、芸風としてはあんな風ではないだろうと期待していたのだが…。

 ステージに走ってでてきた二代目三平の姿は、まさしく爆笑王二代目としてのそれだった。テンポのはやいギャグ、シャレは確かに笑えたが、少し残念だなあと思った。
 三平のそれは、いわば「ガチャガチャした音」だ。テレビ文化の中で一時代を築いた初代であればそれなりの価値は高いが、一代限りこそであるような気がする。 以前の記事を検索してみると「漫談を交えたリズム落語の継承」を確かにしゃべっているようだ。しかし「古典はもちろん」という言い方もしている。

 二代目三平の声を十分に生かす方向にいってもらえないだろうか、この問題は襲名という文化のある芸能では常につきまとうのか、それでは惜しいなあ…と、堀井が書くように「落語は好き嫌いである」そのままに勝手なことを書き散らしてみた。

中間点でバロメーターをみる

2009年07月01日 | 雑記帳
 今年の中間点は、振り返りをする気分があまり湧き上がってこない。
 おそらくは、転勤も含めていろいろなことがあった前半だったし、この後に公私を含めて様々な予定されていること、やりたいことなどあるからだと思う。

 ただ、いくつかバロメーター的にしていることを改めて確認してみることは無駄ではないだろう。

 まず読書であるが、記録を見るとこれはちょっといただけない。
 冊数としては挽回できる程度だろうが、質がねえ。もちろんそれが自分のレベルなのだろうけれど、だらだらと低き甘きに流れそうな傾向も感じ…。ここらで書店探索をして背表紙読書などをしないといかんかな。
 今年は「読み直し」を一つのテーマとしたので、そちらにも目を向ける7月としたい(と決心してみる)

 自分の健康面として課している運動は、ちょっとさぼり気味である。ある時期まで継続して記録していたのだが、それを止めてしまったことが堕落傾向の原因の一つだろう。記録に叱られ、励まされるタイプの人間には、やはりそうした策しかないようだ。

 最後に、このブログもバロメーター的なイメージを自分で持っているのだが、主たる素材にしている読書がぱっとしないので、もちろん内容はそれなりだ。身辺雑記も気ままに書いていて、それでも少なくない方にアクセスしてもらっていることは、やはり有難いことだ。

 波乱万丈とまではいかないが、結構刺激的な半年だったので、それに負けないほど刺激的な後半を送りたいと秘かに?思う。そう振り返られる年末であればいいなあ。
 そしてそれはたぶんバロメーター的にしていることと無縁ではない気がしている。