いったい何日かかって読み終えたことになるのだろう。いくら上下巻のある小説だといってもこんなに長い期間付き合っていた話は初めてだった気がする。
『鳩の撃退法』(佐藤正午 小学館)
このブログ記によると、2月上旬に「上巻で挫折し」と書いてあり、おそらくは1月下旬には読み始めているか。つまり一ヶ月は超している。寝室+風呂という場所で、細切れではあったがよく続いたものだ。「面白かったか」と問われれば「はい」と言いつつ首を捻る、きっと。ただ続いたのには訳がある。
一度目は上巻半ば過ぎでついていけなくなり、もう止めよと思ったのだが、何の気なしに見た『ほぼ日』サイトの中に、糸井と佐藤正午の対談があるではないか。そして読み込むうちに、糸井ファンを自称する者としてはもう一度チャレンジかと思い始めたのだった。初めから読み直すと、なんと「ピント」があった。
もちろん時間をおかない2度目だから、理解の助けがあったのは確かだ。しかしこの本の魅力はぐんと伝わってきた。この小説のストーリーは、簡単に短くは言い表せないし、そういうふうに要約する無意味さを証明しているような話だと言っていい。つまり、何重にも複雑な入れ子構造のようなイメージを持った。
「冗長」という表現がふさわしいのかはわからない。ただ語りのテンポ、息づきもなしに畳みかけそれも途中で戻ったりはぐらかしたりする文章に快感を覚えた。例えば舞台演劇でたまにある俳優の長台詞のような、もしくは一昨年の名ドラマ『俺の話は長い』の生田斗真の活舌のいい言い訳台詞なども思い出された。
お決まりのように頻出するのは、主人公が相手の名字をずっと言い違え、それを必ず訂正させる会話。タレントのDAIGOが使う略語的なフレーズ(例えばTYSを「とってもやばい仕事」と言う)もある。何の意味があるか定かでないか、作家はそれで文章のリズムをとっているようだし、人物の表情も作っている。
伊坂幸太郎は「語りの技術については世界最高峰のレベル」と語ったが、世界を知らない読者にとっては、それが気持ちいいかどうかしかない。没頭できればもっと早く読了しただろうが、何度か途切れた。それでも一ヶ月続けていたの、文庫下巻に糸井の書いた「解説」にたどり着きたかったという理由もあった。
それは明日へ
『鳩の撃退法』(佐藤正午 小学館)
このブログ記によると、2月上旬に「上巻で挫折し」と書いてあり、おそらくは1月下旬には読み始めているか。つまり一ヶ月は超している。寝室+風呂という場所で、細切れではあったがよく続いたものだ。「面白かったか」と問われれば「はい」と言いつつ首を捻る、きっと。ただ続いたのには訳がある。
一度目は上巻半ば過ぎでついていけなくなり、もう止めよと思ったのだが、何の気なしに見た『ほぼ日』サイトの中に、糸井と佐藤正午の対談があるではないか。そして読み込むうちに、糸井ファンを自称する者としてはもう一度チャレンジかと思い始めたのだった。初めから読み直すと、なんと「ピント」があった。
もちろん時間をおかない2度目だから、理解の助けがあったのは確かだ。しかしこの本の魅力はぐんと伝わってきた。この小説のストーリーは、簡単に短くは言い表せないし、そういうふうに要約する無意味さを証明しているような話だと言っていい。つまり、何重にも複雑な入れ子構造のようなイメージを持った。
「冗長」という表現がふさわしいのかはわからない。ただ語りのテンポ、息づきもなしに畳みかけそれも途中で戻ったりはぐらかしたりする文章に快感を覚えた。例えば舞台演劇でたまにある俳優の長台詞のような、もしくは一昨年の名ドラマ『俺の話は長い』の生田斗真の活舌のいい言い訳台詞なども思い出された。
お決まりのように頻出するのは、主人公が相手の名字をずっと言い違え、それを必ず訂正させる会話。タレントのDAIGOが使う略語的なフレーズ(例えばTYSを「とってもやばい仕事」と言う)もある。何の意味があるか定かでないか、作家はそれで文章のリズムをとっているようだし、人物の表情も作っている。
伊坂幸太郎は「語りの技術については世界最高峰のレベル」と語ったが、世界を知らない読者にとっては、それが気持ちいいかどうかしかない。没頭できればもっと早く読了しただろうが、何度か途切れた。それでも一ヶ月続けていたの、文庫下巻に糸井の書いた「解説」にたどり着きたかったという理由もあった。
それは明日へ