すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「桃太郎」と…読み語りました

2021年05月19日 | 絵本
 桃太郎とはつくづくいい素材だ。昨年、小学生による桃太郎研究本が発刊されたことにも驚いたが、「学会」まで組織されているとは…。最近ケンミンショーでも岡山県民が取り上げられていて、そこにも桃太郎愛(笑)を感じた。自分もささやかながらその末席に加わろう。ガタロー☆マンの読み聞かせも盛り上がった。


『空からのぞいた桃太郎』(影山 徹)岩崎書店 2017.09

 この題名、そして内容を見て、ひどく感心したことを覚えている。様々なバージョンで発刊されているこの昔話を、俯瞰という視点で描くとは、非常に興味深い。もっとも文章に関して言えば、まったくオーソドックスな展開、描写である。しかし「絵」が語ることの大きさを感じさせてくれることは、間違いない。

 出版する側の意図は、小さい解説書に記されていることで想像できる。典型は本の帯にある「鬼だから殺してもいい?あなたはどう思いますか?」だ。それは、鬼が島の様子を描いた3枚の画によって象徴される。前置なしにその絵をみたら、どんな反応があるものだろうか?これはぜひ親子で一緒に読みたい一冊だ。


『ももたろう』(ガタロー☆マン)誠文堂新光社 2020.12


 これはもはや「桃太郎」の筋を追うというより、言葉や画のパフォーマンスを楽しむ体裁である。どんなテンションで語り聞かせるか、そこに尽きると言っていいかもしれない。しかし語尾の「ました」を強調することは、語感について意識させることも含まれるといってよい。まあ、その場では考えないだろうけど。

 ひとつ面白いアレンジがある。筋の中で「犬・猿・雉」の登場順は鉄板ともいうべき点だが、それが「猿・雉・犬」という順で出される。しかも今まで性別は考えたことがなかったが、犬がメスという体裁で描かれている。これも意味は特になく、作家の楽しませ方としての手法かもしれない。まあ意外な一冊である

「桃太郎」と言ったって②

2021年05月18日 | 絵本
 日本一有名な童話といってもいい「桃太郎」には、様々なバージョンが存在する。図書館に在るものは、まあスタンダードなもので、次の2冊は典型的だろう。文章や描かれる絵には、それぞれ作家たちの個性があふれる。脚色は自分の中の物語の表現でもあるだろうし、それを味わうことが同一テーマの楽しみだ。


『ももたろう』(代田昇・文 蓑田源二郎・絵)講談社 1978.09


 これはずいぶんと脚色されている。もちろん特定の地方で語られていた場合もあるだろう。桃太郎が最初はなまけ者だったこと、一人で舟に乗り込み、鬼が島を目指す途中で、犬が島、猿が島…で家来と会うこと、大きな船にたくさんの娘や宝を積んで凱旋すること、などだ。墨を使った絵の雰囲気がなかなか見事だ。

 読み進めていると、なんとなく講談調の語りが合うように思えてくる。特に戦いの場面の調子のよさがマッチするように思える。「『そうれ、やっつけろ。』と、ほいさかどどどと もんのなかに とびこんで、あか、あお、くろのおにどもを~~」と畳み掛ける。擬音語だけでなく、全体をリズムよく語る手もありそうだ。


『ももたろう』(山下明生・文  加藤休ミ・絵)あかね書房 2009.10


 この絵本の特徴は、まず一つには筋がこまかく書き込まれている点が挙げられる。家来にする過程で、それぞれにきびだんごを「ひとつじゃたりない、ふたつあげよう」とする箇所もユニークだ。特に鬼が島上陸から退治するまでの描写が詳しく、読み応えいっぱいである。一流童話作家の文章がさすがに冴えている。

 また、絵も魅力的だ。クレヨン・クレパス画らしいが、暖かみがあるし、面白みの伝わってくるタッチである。あとがきに山下明生が文章を寄せていて「プリミティブな力強い絵」という形容がぴったりだ。一人で読んだり、少人数の読み聞かせたりするなら、この一冊を選ぶだろうと思う。「桃太郎」の魅力が高い。

「桃太郎」と言ったって①

2021年05月17日 | 絵本
 今年度のスタートに「桃太郎」を読むことにした。「おかしばなし」(昔話のもじり?)のシリーズが異色で楽しそうだったから、対象の中学年にはウケるだろう。ただ、それだけでなく、ミニブックトーク風に、他の絵本も紹介してみることにした。改めてバリエーションの多さに驚いてしまう。2冊ずつ見ていく。


『桃太郎』(絵・斎藤五百枝  新・講談社の絵本)2001.05


 元祖というべきか、正統派というべきか、表紙絵の姿を見ただけで「昔ながらの…」と表したくなる。筋はよく知っているその通りであり、家来となる犬・猿・雉の格好が武具を付けていることで、描かれた時代を想像できる。勧善懲悪の形をとって、明治期以降の国定教科書の挿絵のイメージを作ったとされている。

 今改めて読むと、登場人物の台詞がはっきり書かれていてストーリー性が高い。さらに擬音語が懐かしい。昔幼い頃に耳に馴染んだ音に近いからだろう。桃が流れてくるときの「どんぶりこっこ すっこっこ」、宝物を車に積んで皆で押すときの「えんやらや、えんやらや」というかけ声。こうしたリズムの良さは不変だ。



『ももたろう』(岩崎京子・文 宇野文雄・絵)フレーベル館 1984.04


 「むかし むかし あるところに じいさまと ばあさまが すんでいましたと」と定番フレーズで始まる。「にほんむかしばなし」シリーズは他の本もそうだろうか。漫画チックな絵で進行する。トビが鬼の悪行を知らせる、長者の娘がさらわれているなど、おそらくこれはどこかの地方に伝わる筋を生かしている。

 桃の流れる様子は「つんぶく かんぶく」、トビの語る「ひんがら ひんがら」などは特徴的だ。場面として詳しく描かれるのは、鬼が島へ上陸し最初の門を突破していくところだ。動きがある。他には、いくつかの場面で地の文がなくて、台詞だけで進行するので、読む場合は声調などに変化が欲しい。それも面白い。

有限なる時間を文質彬彬と

2021年05月16日 | 雑記帳
 風呂場読書の在庫がなくなったので、書棚から再読でもしてみようと『復路の哲学』(平川克美 夜間飛行)を取り出した。語り口というか文体に惹かれるんだなと思う。内容に難しい箇所があっても読み心地がいい。「還暦を過ぎると風景の色が変わることについて」の章では、と「読書」のことについて述べている。


 「ある年齢を過ぎると、(略)意識の中に、『読むべき本の箱』と『読まなくてもよい本の箱』があって、本を手にした瞬間に、そのどちらかに振り分けるようになる」…往相と還相とでは時間の意識が異なり、有限が見えてきた者の特徴として現れると言う。自分も徐々にそんな感覚を持ってきたのか、と想ってしまう。


 一年前に発刊された、湊かなえの『カケラ』という小説を7割ほどで止めてしまった。美容整形をテーマにしたミステリで、複数人物の独白で構成するパターンは相変わらず巧みだが、何だか妙に「おしゃべりだな」と感じてしまった。もちろん黙っていては成り立たない物語の世界だが、その饒舌さに飽いたようだ。


 併行して読んでいた平川の文章の影響もあったかもしれない。変な話だが、滔々と語り続ける登場人物たちに顔を背けたくなったのだ。有限な時間のなかで自分が読むべきものは、もっと淡々と言葉少なくあっていいのではないか。詩や絵本などは適するかもしれないと思えてきた。まあ目もしょぼしょぼしてくるし…。


 孔子に「文質彬彬として、然る後に君子あり」の言葉がある。「内面と外面をバランスよく保て」といった教えとされているようだ。「文」を表に現れる言動、「質」を心の部分と考えてもいいだろう。自分は無理なので、せめて見聞するモノには気を配りたい。有限なる時間に文質彬彬なるものを求めて、ということだ。

まずは缶を蹴る

2021年05月14日 | 絵本
 絵本カテゴリーがなかなか捗らない。学校での読み聞かせが年度替わりで二か月なかったこともある。割り当てが決まり、いよいよ来週から始動する。少し意識して絵本を手に取り、印象に残ったものを取り上げてみよう。ある程度パターンを決め、粗筋→特徴、よさ→ポイントと綴ってみよう。まずはこの一冊から。


『かんけり』(石川えりこ) アリス館2018.09



 学校からの帰り、なかよしのりえちゃんにかんけりに誘われた「わたし」。みんながオニに見つかり、たった一人物置小屋から、じっと様子をうかがっている。いつも助けてくれるりえちゃんが、小さく手をふってわたしの助けを求めている。わたしは、じぶんに「よし!」と声をかけ戸をあけ、かんを目指して走って…。


 「かんけり」…懐かしい響きだ。昭和30年代後半から40年代初め、休日や放課後に小学生が近所で遊ぶ定番の一つだ。この作家の作品は初めてだが、1955年生というからほぼ同齢。だからこそ「かんけり」という素材なのだと納得する。鉛筆と水彩を使った画が、その時代の遊びの姿にぴったりマッチしている。


 かくれんぼ+鬼ごっこの要素を持つが、この「缶を蹴る」という動きが「わたし」の勇気を出す心情とうまく絡んでいる。誰しも経験のあるいつもの自分からワンステップ踏み出したい気持ちを、終盤の数ページで缶を蹴るまでの動きとしてダイナミックに描く。遊びの紹介も含めて、中学年以上に向いているだろう。

バッテリーリフレッシュの問題

2021年05月13日 | 雑記帳
 先日、タブレットが駄目になった件を書いた。あれこれいじったり、調べたりしているうちに、久しぶりに「バッテリーリフレッシュ」という用語を目にした。もちろん、通常に使われているが最近あまり意識しなくなったのは、関連機器の性能が上がっているからか、それとも使い捨て的なことが多くなったからか。


 そこはともかく「バッテリーリフレッシュ」という語から一つ連想が働いた。人もそれに似ていると…。こまめに充電はしていたとしても、思い切ってエネルギーを使い果たすことがなければ、容量がだんだんと狭まっていくのだよ、という機能上の問題は、人間の感覚にも当てはまるかもしれないと関連づけてみた。


 そういえば教員現職時代には、勤続何年かにリフレッシュ休暇と称する休みをとれる制度があったような…。もちろん、それ自体とてもしょぼい(笑)日数だった。ひと月とか三か月とか与えるほどの余裕を持てない、いや日本人自体が勤勉を旨としてきたから、仕方がないかもしれない。ここは自助努力すべき点か。


 個人的には退職してからの3年間は自分にとって、まさしくバッテリーリフレッシュに該当したか。それほど容量のないことを自覚していたから、自由時間は貴重だった。もっともそうは言ってもバッテリー自体が古くなり「劣化」は感じていた。そう思うと、もっと心配なのは若い人、子どもたちのバッテリー機能だ。



 エネルギーを使い切る体験の場が明らかに減っている。コロナ禍に関係なく、もうかなり前からその事態は進行している。学校で言えば、そういう授業や活動に対する慎重な姿勢をとらざるを得ないからだ。安全・安心が叫ばれ続けている副反応か。いやこれは予想できるのだから、工夫して改善すべき問題なのだ。

騒動や新しさより日常を

2021年05月11日 | 雑記帳
 高齢者なので、ワクチン接種予約をしなければと思っていた。4月下旬から受付は始まっていたが、どうせ混むだろうと(案の定、こんな小さい町でも混乱したと聞いた)連休明けから動くことにした。初日午後の複数回電話が駄目で、翌日、退勤後に直接申込しにいったら終了という。そこから電話しようやく取れた。



 接種は再来週に始まるのだが、私への割り当ては8/18だという。そこまでとは予想していなかった。しかし順番はきちんと守るものだと、親や学校の先生はいつも教えてくれたので当然かと思う。ただその夜の首相会見で7月末まで2回目接種を終了させる旨を聞くと、改めて地方の実態は蚊帳の外かと感じてしまう。


 コロナ感染が本格化しパンデミックと囁かれだした頃、戦争の知らない自分たちの世代も、大文字の歴史に位置づけられる騒動に生まれたことになるか、と変な感慨を抱いた。ただ戦時下もおそらくそうであったように、都会と田舎のギャップは大きい。情報化ゆえに混在、混乱もあるが、人口密度は状況を左右する。


 最近では『この世界の片隅に』が描いたように、どんな状況にあっても「暮らし」こそが、一人一人の本質であり守るべき価値だろう。広く世界を見渡した時の隔差や多様性について頭の中に留めるにしても、「いま・ここ」の問題に向き合うことなしに、充実感は得られない。TVやネットの世界は泡のようだと思う。


 藤原智美著の『この先をどう生きるか』にも「暮らしを第一のテーマにする」が提起される。具体的には食などの家事のルーティン化を挙げる。自分の場合は甚だ心許ない現実だが、それが「土台」であるとしみじみ感じる。仮に「騒動」が身近に迫ってきても、急に叫ばれる「新しさ」に振り回されず日常を続ける。

さよなら、Surface

2021年05月10日 | 雑記帳
 久しぶりにタブレットを使おうと思ったらなかなかオンしない。充電が足りないかと電源コードを付けたら起動した。しかし、その後バッテリーが機能しないことに気づく。検索して調べても古い機種だし、復活はかなり困難なことが判明する。いよいよ寿命かあ、結構長く持ったのかな。このブログで検索したら…。


 購入したのは2013年11月。ノートパソコンは持っていたが、流行のタブレットを手にしたい欲求が募り、確か野口塾での講座担当を自らの言い訳にして買い求めた。持ち始めた時の奮闘ぶりのメモを見て、相変わらずのドタバタに苦笑した。そして中に「光ポータブル」の文字があることに、さらに懐かしさが…。


 Wifiが浸透していない頃だったので、NTTのモバイルルーターも一緒に購入したのだった。しかし、それらは存分に生かせなかったなあという思いが残っている。このルーターは結局3年経たないうちに提供終了していた。Surface自体をうまく使った講座や授業の印象が残っているかと言えば、ほとんどないなあ。



 うまくつながらずに苦心したことが二度三度、それで別方法を選択することが多くなった。このモデルはUSB端子が付いていたので、かなり使えるはずと踏んだがその目論見は甘かった。結局スマホ購入が遅かったので、旅行の際に携帯する役目が大きかった。それを考えると、時期からしていい旅仲間であった。


 さて、後継をどうするか。画面の大きささえ気にしなければほとんどスマホで出来るから、必要ないはずなのだが…。一昨年だったか「必要だ!欲しい!」と買ったメディアプレーヤーが、使い物にならないので後悔した。欲しい機能は決まっているので、それに特化したいい機種があれば…。また「欲」まみれになる。

もっと普通にもっと近くに

2021年05月09日 | 雑記帳
 昨日は三度目の山菜取り。ワラビが本格化してきた。この時期毎年感じるのは徐々に人が入らなくなっているので、山が荒れているということ。今年は特に冬の積雪量の多さで、たくさんの樹木が倒れたり、枝が折れたりしてことさらだ。我々人間だけがそう思うのかもしれないが、のどかな里山風景の変化は悲しい。

 
 散歩程度のリフレッシュ、短時間での山歩きだが、久しぶりに野生の(笑)かたつむりを見つけた。幼い頃なら捕まえて戯れるのが普通だった。一年生を受け持っていた時には教室で飼い、観察対象にしたこともあった。いつのまにか逃げ出して、捜したこともあったっけ。やはり自然の中にいると、様々な想いが湧く。



 「少年自然の家」が建てられた頃は、盛んに学校利用があった。それも2泊3日という日程のときもあった。活動メニューもあらかたこなし、最終日に目的も決めずにハイキングをしたことがあった。学級で一番真面目な女児がその何にもない淡々とした時間を「一番楽しかった」と語ったことは、今でも覚えている。


 今日は秋田ふるさと村で古くからの友人である酒井浩さんのギャラリートークがあった。「鳥の目・虫の目・子どもの目」と題されたお話は、彼が毎日!通っている里山の自然を、動植物の姿とともに紹介する形である。参加した子どもたちにもわかりやすく、かつ普遍的な自然観を感じさせる、さすがの内容だった。


 Q&Aで「クマ」の話題が出た。その出没は脅威とされ、再三注意が呼びかけられる。しかし酒井さんは山に人間があまり入らなくなったことも原因の一つではないかと語り、積極的な里山行きを奨めた。悲しい出遭いにならないために距離を近くする発想は、この問題に限らず、今我々が大切にすべき姿勢ではないか。

時間の共有という愉しみこそ

2021年05月07日 | 読書
 寝床のお供にと選んだ2冊。どちらも人気作家、そしてどちらも週刊誌連載を編集した単行本だ。週刊誌は最近ご無沙汰なので、まあ初見ではある。


『ひとりをたのしむ 大人の流儀10』
  (伊集院静  講談社)


『百田尚樹の新・相対性理論 人生を変える時間論』
  (百田尚樹  新潮社)



 しかしどちらも馴染みの深い作家なので、文体や思考のパターンに慣れているのか、ある程度先が見通せる読み方になってしまった。その意味ではあまり心動かされた書物ではない。ただ2冊読み終わって何となく対照的なイメージが湧いてきた。どちらも今年の新刊であり、コロナ禍のさなかに書かれた部分もある。


 百田本はやはり「らしい」切り口で読者を惹きつける。それにしても「新・相対性理論」とは吹っかけた感じがする。まあそれも持ち味か。「すべては『時間』が基準」という発見?を、多様な視点から諸々の例を引きながら説く上手さがある。道具や金銭や社会構造、芸術…確かに「時間」が生み出す産物に違いない。


 かつて、国分康孝氏が語った「人生とは…時間の使い方」というシンプルさに大きく頷いた。それは個の視点だが、百田本では具体的かつ多彩に噛み砕いている。後半の恋愛に関わって「時間の共有」が示されたことに頷く。他者の存在なしに生きられないという自明の理の中で、その視点の持つ深さを改めて感じた。


 そんな感覚に伊集院本が一言放つとすれば「それが、どうした」か。これは連載のタイトルでもあった。身体を貼って物事に対してきた作家の姿勢といってよい。そしてさらに「ひとりをたのしむ」という書名までつけた。ただ「孤独が友となる。ひとりのときをじっと味わう」の「味わう中身」に他者はいるはずだ。


 著者のファンなら知っている「東北一のバカ犬」への愛着は頻出するし、贔屓にしているアスリートたちへの激励、家族との遠い思い出等々。自らを冷静に棚上げしながら(笑)、結局は他者の言動に滲む「芯」の部分に目を向けている。作家としてそれを描くことは、きっと時間を共有した愉悦があるからではないのか。