すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

少しだけ深刻な時間を

2021年07月18日 | 雑記帳
 この頃、こうした言い回しは聞かなくなった。しかし辞典にはきちんと「性格俳優」が載っている。広辞苑には「劇中人物の深刻な性格を巧みに表現する才能を有する俳優」とある。他の辞典には「個性・個性的」という説明が使われているので、「深刻な性格」という箇所が特に際立つ気がする。そんな俳優が最近は…。


 人気ドラマシリーズ『緊急取調室』(TV朝日)に登場した、桃井かおりを観た。まさに、性格俳優だなと感じた。また設定がいい。50年前の学生運動で、7分間の演説をまくしたて官憲(笑)を黙らせた伝説の活動家だ。潜伏期間を経て、事件の表舞台に復帰したというのも、しばらく画面に出なかった桃井を彷彿させる。



 若い人がみれば、「癖が強い」と片付けられるか。それを「深刻な性格」と表現するのはやはり世代なのか。「深刻」という語自体、あまり使われなくなったことにも気づく。社会全体が、明るく元気で、清潔でドライで、前向きに…そういう方向に歩んでいる。悪いことではないが、陰の部分を少し蔑ろにしていないか


 いや、実は誰もが「陰」についてはっきり認識している。社会問題として生じている、引き籠りや貧困やハラスメント等のこと。そして自分自身も重い問いを絶えず抱えて、その表出を怖れ、巧みに飼い馴らしていることも。舞台や画面で、表現者にそんな場面を見せつけられたら、たまには深刻に考えてよくないか。


 「刻」とは「きざむ」。「時(とき)」と同じ意味とされている。とすれば、深刻とは「深い時間」を表していると考えてもよい。語につきまとう暗いイメージにとらわれないで、たまにはじっくりと、物事を突き詰めて思うことも必要ではないか。久しぶりに観た桃井かおりの演技から、少しだけ深刻な時間を過ごせた

寝覚めの頭でかの国を旅する

2021年07月17日 | 読書
 明るくならないうちに覚醒してしまう朝が続いたので、何か眠くなる本を…と思ったわけではないが、何の拍子が『山月記』(中島敦)を借りてしまった。理論社が出している「スラよみ!現代語訳名作シリーズ」で、表題作の他に、『名人伝』と『李陵』が収録されている。読みやすかったので、眠くならなかった(笑)。



 『山月記』…高校生の時に読んでいるんだろうが、記憶はない。いわゆる「変身譚」という類の物語、教訓的に読むしかできない感じもあって、なんとも言えない。作品価値を知らない者の妄想としては、続き話の表現活動が思い浮かぶし、そういう楽しみ方もあってもよくないか。いやいや古代中国思想に反するか。


 同じく短編の『名人伝』は、同様の中国思想が背景にあるにせよ、最後がなんとも言えないので好きだ。天下の弓の名人を目指し、技芸に励む者の極致がいったい何に収まるのか。これは落語になっていないのかなあ、日本に変えても、弓でなく別の技芸に変えても十分に通用し、深遠さと滑稽さが入り混じる話になる。


 『李陵』は、実際の歴史と人物がモチーフになっている。スケールの大きい展開はやはりかの国だ。ごく短い観光旅行をしただけで口幅ったい言い方になるが、大陸的な思考、行動力が描かれている作品だ。空間そして時間の感覚が異なる国をこれほどに著せる作家、若い時は感じられなかったが、改めて素晴らしい。

久しぶりに向き合って…

2021年07月16日 | 雑記帳
 夏休みに図書館主催で行うワークショップへの参加申込がまとまった。中学生への応募をかけたフィールドワークはやはり駄目だったが、小学生向きはほぼ上限人数まで達したので嬉しい。参加する子と保護者へ向けて、改めて案内を出すため、封筒へ宛名書きをしていたら、この作業も久しぶりだなと思ってしまった。



 教員時代は幾度となくやってきたが、毎回宛先が決まっている事務局仕事が多く、段々とPC処理が一般的になっていた。筆ペンを持ちながら多数の氏名を書いていく作業、去年も同時期にやってはいても、何か新鮮に思える。人の名前を直筆で書く、むろんその時の状況にもよるが、手仕事をしている感覚になる。


 大袈裟に言えば、一人一人と向き合っているということか。午前は宛名書きから封筒詰めを終え、午後は役場での教育行政評価会議へ参加する。3時間以上に及ぶなかで、ああ久しぶりと感じたことがここでもあった。学校でのいじめ問題の折に使われた「社会通念上のいじめ」と「法律上のいじめ」という用語だ。


 数年前に繰り返し職員に対して話したことが思い出された。心の中で深く首を傾げながら、語っていた「その子がいじめだと思ったら、それは『いじめ』なのだ」「いじめがあったという報告は、躊躇なくする。その数は多ければ多いほど認知していることになる」…現実と深い矛盾がある言い回し、常に承知していた。


 いじめという行為は永遠に無くせない。それが出発点。そこからどう足を進めるか。ハラスセント行為全てに共通するだろう。最終的に「法」に頼るのは人間が社会を営む以上やむを得ない。しかしそれ以前に「人」であり、どう向き合うかが本質なのだ。「法」が「人」の弾力性を劣化させる典型のように思えてくる。

木皿食堂で噛みしめる味

2021年07月13日 | 読書
 第一章は新聞連載のエッセイで、全体の見出しとして「自分の信じる力を、信じる」と付けられている。そしてそれは、文庫全体の題となった「六粒と半分のお米」という文章の締めくくりの一文だ。知り合いからの贈り物が入れられた箱に紛れ込んでいたそれらの米粒の、偶然性や現れ方をメッセージと捉えている。


『木皿食堂2  六粒と半分のお米』(木皿泉  双葉文庫)


 いったい「自分の信じる力」って何だろうと思う。「貴方の信じる力とは何ですか」…そんなふうに問われたらどう答えるか。もちろん、現実にそう突然話しかけられたら、宗教関係としか思わないから、「結構です」と即立ち去ると思うが。これは、具体的な何かを指すというより、その力のでき方を想うことなのだ。



 つまり、たまたま自分の身に起こった些事を何かいい兆しとして「信じる」ことが出来るならば、きっと下地が作られているはず。幼い頃から躾けられてきたことや学んだこと、繰り返し考え、思ったことの総体が、それを信じる心に向けるのだ。それは客観性やデータや他者による評価などより、ずっと心底にある。


 今の世の中をどうにか生き抜くためには、非社会的、反社会的な思想とまでは言わないが、いい加減さ、緩さも含めて「ワタシはこれで」と言い放つ覚悟が必要なのだ。この本にはそんなふうに自分を保つヒントがいっぱい詰まっている。ごくごく普通のコトバをどう噛み締めるか。今日の木皿食堂で注文した皿には…。


 「損も得も人がつくったこと」

 「人間には弾力があるということを知らないと、簡単にポキッと折れてしまう」

 「何でもかんでも選べるっていうのは、裏を返せば自分も選ばれているってこと」

 「孤独は、私が私を見失わないための錘のようなものである。いついかなるときも、それを切り離してはならない。

美醜を胸に問う習慣

2021年07月12日 | 読書
 筑摩書房の出すPR月刊誌『ちくま』の冒頭連載を、蓮實重彦という文芸・映画評論家が書いている。「些事にこだわり」というタイトルどおり、実に個性的というか偏執的というか、とにかく黙読しながら頬が動いてしまうような文章だ。それは納得やら、疑問やら、特異な視点への驚きやらが入り混じった反応だ。



 今月の題は「マイクの醜さがテレビでは醜さとは認識されることのない東洋の不幸な島国にて」とある。映画とテレビの画面を較べ、マイクロフォンの存在が決定的に違うシステムであることが、メディアとしての役割の本質をあぶり出していると書く。つまり、テレビは「本質的に音声メディアにほかならぬ」と。


 画面にマイクを映さない前提である映画。言われてみれば当然だが、それに比して、テレビでは基本フィクション以外は、マイクの映り込みは普通と捉えられている。最近はいわゆるピンマイク等が普及し、胸元に装着されコードが伸びているし、その画をごく普通に受け止めていたが、蓮實は「醜い」と断じている。


 「画面の劣化効果」「マイクという素材の形態的な不快さ」とまで表現する。結局それは「視聴者たちの美意識のまったき不在」に同調していると、名のある評論家が語ると、うな垂れるしかないか。個人的には舞台役者が肌色のテープで隠すピンマイクに嫌悪感を覚える。それを突き詰めると、見えてくることがある。


 美的感覚を養うには、価値の高い対象にいかに多く触れるかが決定的だろう。幼ければただ漫然と接するだけも何かしらプラスに働くのではないか。しかし大人が意識するとすれば、目や耳が慣れていないかを自問する習慣を持ちたい。情報洪水の中で流されず我が身を守り、道を外さないために美醜を胸に問う。

乗ってしまったからには…

2021年07月10日 | 絵本
 『悪い本』に続いて「怪談えほん」シリーズ。『悪い本』は第一期配本だったが、この一冊は第三期とされ、昨年発刊されてばかりである。検索すると発刊元には特設サイトがあり、話の募集も行われていたようだ。「怖い本」はいつでも需要があるものだ。昔は「語り」一辺倒だったが、今はいろいろな手を駆使できる。


『おろしてください』(有栖川有栖・文 市川友章・絵 岩崎書店) 




 『悪い本』は、じわりじわりと来る設定と展開。この一冊は、もう直球といっていいほどに場が準備されている。道に迷い、小さな駅を見つけ、乗り込んだ列車のなかで「ぼく」が見たものは…、描かれる画も実におどろおどろしく、ストレートだ。人間と魔界の境がトンネルにあることも、オーソドックスと言える。


 あえて、細かく絵を読み解くと、「かたつむり」や「ねこ」の存在が気になる。最終的に人間界に戻れたとしても、同行したかたつむり、ねこは何を見てきたのだろう。現実社会で何を見ているのだろう、と想像することもできる。まあ、一度さらっと流したぐらいでは、そこまで気づく子はいないか。いや読者は多様だ。


 では、読み語るとすると…。これはドラマのような語りと台詞のイメージかなと思う。映像化すると、それらしいBGMがつきそうな展開だ。そこを生声のみで表現するとすれば、十分な間、感情を表す緩急が大事か。車掌の声をどうするか、この辺りが怖さを引き出すポイントになるか。エンディングの絵がいい。

噛むは人生を醸すために

2021年07月09日 | 雑記帳
 昨日の駄文を書くきっかけを作った冊子の一番のねらいは、最終的に「ガムを噛む」ことになっていた。もちろん、ガムを噛むことが唾液分泌にいいことは承知していた。それなのに、このところずっとガムを噛んでいない。それは一昨年だったが、ガムによって差し歯が取れたというありがちな老化問題に結びつく。


 「噛むこと」の有益さは、健康雑誌などでずいぶんと喧伝されてきたことなので、ある程度知っている。この冊子ではなんと「付録(ページ)」として紹介している。それは、ガム購入のための駄目押しのように「噛むこと」の効果、それも唾液を分泌し健康を守る以外の、「選りすぐりの6つ」を項目化しているのだ。


 「仕事のストレスを軽減」「仕事の効率がアップ」「脳の反応が速くなる」「脳の前頭前野が活性化」「(顔の)たるみを予防」「中性脂肪が減る」…何か、これで人生の9割方の問題が解決しそうだ。毎日の苦労やストレス、自分の能力・資質の問題から、外見、スタイルまで…ガムを噛んだら、明日からバラ色の人生が…。



 と実際誰も思わないのは、別にガムのせいではない。PRする側が嘘をついているわけでもない。科学的根拠の信憑性を棚上げして言えば、実行が効果に結びつく時間の長さに、ほとんどの人は耐えられない。効果が出る前に、さらに良き方法を求めて目を移すからではないだろうか。そのうちに噛む力も弱くなる


 ガムはともかく、噛むことは意識的な努力によって長続きさせねばならない。それがある意味「命の源」をつくるのだと、齢につれ感じてくる。「かむ」は「かもす(醸す)」の古語でもある。酒造りが米を噛んで作ったことに由来するらしい。ここは高齢者らしい一言、「醸す人生を目指して今日も噛む」と締めたい。

もっとウェットでいいじゃないか

2021年07月08日 | 雑記帳
 新着図書の棚に「唾液がカギを握る!」というブックレットのような冊子があった。手に取ってみると、副題として「世界総マスク時代の健康法」とある。なるほど…。50ページ足らずの裏表紙をみると、Oral**とあり、いわゆるPR的な書と気づく。そうだとしても、唾液にはちょっと興味(笑)があるので開いた。


 今、子ども園の年少児クラスに通う上の孫の「よだれ」が目立たなくなったのはいつ頃だったか。とにかく半端ない量で2歳時にはまだ、一日中よだれかけをしていた。唾液は健康にいいはずだからと理由づけしながら、本当は大丈夫かと思っていたのも確かである。しかし、いつからかその量は減り今はごく普通だ。




 この冊子によれば「唾液はウィルスと戦う!」頼もしい「警備員」なので、よだれをだらだら垂らしている子は無敵といっていいはずだ。しかし成長に従って、よだれとは無縁になるのだな。そういえば、「唾液が減るのはナゼ?」という項目には、その理由の筆頭として「加齢」が挙げられている。まあ成人の話だが…。


 そういえば緊張が高まると口の中が渇くという体験は何度かしている。PTAなどの全体挨拶でも、一、ニ度あったと白状しておこう。その他「激しい運動」「口呼吸」「空調」なども日常生活で挙げられている。マスク時代の今は「水分補給の機会が減る」「人と話す回数が減る」の二つも、唾液減少の理由になってくる。


 注意すべきは「ドライな口の中」というフレーズは、心に留めたい。口腔内環境の大切さは今こそ意識すべきだ。もっとも、そのフレーズをもう少し拡張すると、ドライな言い方、ドライな心情も重なったりして、渇いた人間関係まで想ったりする。もっとウエットでいいじゃないか日常!よだれも存分に垂らせ!

「大岡裁き」をつかませる

2021年07月07日 | 絵本
 講談絵本に挑んだ(笑)のは、昨年の末だ。その顛末はここへも書いた。同じシリーズを6冊取り揃えてみた。現状では小学生相手がほとんどなので、何を取り上げても内容の難しさがある。しかし、いわば「調子よく語るお話」を耳に入れたいというねらいであれば、それはそれで今どき価値があるのでは…と考えた。


『大岡越前 しばられ地蔵』(石崎洋司・文 北村裕花・絵 講談社) 



 同世代であれば大岡越前といえば加藤剛だな…それはともかく、いわゆる「大岡裁き」の有名な話の一つであろう。「荷かつぎ人足」の弥五郎が、南蔵院という寺の地蔵様の前で昼寝をし反物を盗まれ、相談した善太郎が奉行所にその顛末を話したら、名奉行と言われた大岡さまが「地蔵が盗人と通じ…」と断を下し…。


 絵本作家として有名な北村裕花。親しみやすさがあり、奇をてらった描き方もしていない。馴染みやすいとは思うが、文章の方はやはり「武家ことば」が多いので、今の子どもたちは意味をつかみにくい。時代劇ドラマがたくさんあった昭和期とは違うだろう。会話の調子によって「身分」を感じさせる必要があるか。


 俗にいう大岡裁きのパターンは解決の仕方にからくりがあり、それが逆転劇という形をとる。大人なら簡単に理解出来るが、やはり小学生には難易度高し。そこを絵の力を借りて雰囲気をつかませよう。「難しい言葉や知らない土地の名前はあるけど、絵から想像してみよう!」と言い訳し、再び始めることにしよっ(笑)

今日も誰かの記念日と想う

2021年07月06日 | 雑記帳
 7月6日が「サラダ記念日」だと思い出して、昨日は休館日だったが蔵書紹介という形でブログ更新した。それにしても、1987年『サラダ記念日』の発刊は、当時の自分にも刺激的だった。俳句や短歌の素養はなかったしそれまで関心も高くなかったが、あの一首をもとに授業をしてみたいと思ったことを覚えている。


 実はその前年勤めていた学校で、担任していた高学年に指導し地域の短歌コンクールに応募させ、とてもいい成績を収めた。先輩教師の教えを受けながら指導したが、正直そのコツはつかめないまま、やはり感性次第みたいな気分も残っていた。しかし「サラダ~」以降は、短歌の授業実践も増え、学びも深まった。


 50代になって全校で取り組んだ短歌づくりも忘れられない。チンタラチンタラ続けられたきっかけはそこにあったか。さて、実は「サラダ記念日」自体を検索して面白い記述に出会った。この歌が「記念日という言葉を一般に定着させた」ということだ。なるほど、その語自体はあったが、普及したのはこの作品からか。


 誕生日など世間的に無名な一日であっても、個人的に貴重な日という場合はいくらでもある。結婚記念日、創立記念日等は普通に用いられていた。ただ、その頃から何かを普及、宣伝するための「記念日化」が進んだのかもしれない。歴史ある出来事にちなんだ場合や単なる語呂合わせなど、現在は「毎日が記念日」だ。


3年前の今日、これも記念の日か

 「一般社団法人 日本記念日協会」という団体が正式に発足したのが1991年。自分も図書館だよりやブログで利用させてもらっているので、話題のしやすさはピカイチと言える。今日も何かの記念日ということは、誰かの記念日であり、きっと心を新たにしやすい日でもある。暦はそういう一日一日のつながりでもある。