すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

心はレモンのスポンジだ

2023年04月12日 | 雑記帳
 「心が重い」という表現がある。「重い心」という言い方もある。もちろんこれらが比喩であることは誰しも知っている。ところが、先日館のブログを書くためにメートル法に結び付けて「はかる」というキーワードで調べていたら、ある書籍の「心にも重さがある」という見出しが目に入った。うん、なかなか面白い。

 気になって、ネット検索をしてみるとそれに類した学説などもあることがわかった。
「魂には重さがあるか?」をアメリカのある学者が調べました。
方法は単純明快。息を引き取る前の人間の体重と、その後の体重を計って比較したところ、わずか数グラムだけ死後の体重が減っていることがわかったのです。「魂の重さはレモン一個」と同じであると発表され、話題を呼んだことがあります。

 国立情報学研究所にPDF文書「魂の重さを測った人」(宗像恵)という記述もあった。


 科学的にどう見たらいいのか門外漢にはさっぱりだが、様々な想像をかき立てられる。心(魂)を物質として見做せるなら、肉体的な死亡によって身体と別れを告げた後、どこへ行くのか…といった、まあ古来から議論が交わされたことと変わりないのかもしれない。しかし今、レモンを見ると確かに「心」に重ねてしまう。




 比喩としての「心が重い」も、精神的・身体的なストレスによってレモン的な形状の物が水分を重く含んだような状況かしら…そしたら、それを軽くするには「絞ってみる」「振り回してみる」「吸い取ってみる」などの方法が考えられる。それを日常的な解消法に照らし合わせてみることも可能だ。心はスポンジだ!!


 多少ずれるが「心の重み」も使う。こんな一節がある。「言葉の意味の重みとは、つまりは、ひとのこころの重みなのである」(小野正弘)。ふだんから全ての言葉の意味を重く感じていたら、生活できないのは道理だ。そう思うと、どんな現象も言語も「受容と保存の仕方」によって軽重が量られるという事実に回帰する。

見逃せない映画、周りの愚痴

2023年04月11日 | 雑記帳
 ためらいなく「今回は見逃せないな」と思っていた。まあ、さほどの映画ファンとは言えないが、映画化の話は昨年から知っていたし、いくらアニメと言ってもやはりJazzが関わるとなれば音響のいい映画館で…。ということで久しぶりにシネコンへ出かけ『BLUE  GIANT』を観てきました。いやあ満足でした。



 発刊済の全巻を二回り以上読んでいるので筋は頭に入っている。むろん2時間弱に収めるのだから別物とも言えるが、かなり忠実に場面をピックアップしつつ、クライマックスを大きくアレンジ(それ自体は、あまり違和感がなかった)して結んだ作品だった。原作と登場人物の持つ「熱」は十分伝わってきたと思う。


 Jazzに関しては素人同然、ただ音楽を担当した上原ひろみなら知っている。メロディックなフレーズと映像の絡み、演奏場面の迫力はなかなかの出来だったし、専用空間で観るにふさわしい仕上がりだ。アニメは詳しくないが、全体的なトーンは好印象。声優陣は及第点だろう。もう少し個性的な俳優でもよかったか。


 と、いっぱしの映画通のように語っているが、映画を観たのはなんと3年ぶりだ。2020年3月コロナ感染拡大が忍び寄ってきた頃に『Fukushima50』を観てから足は遠のいた。アニメであれば『この世界の片隅で』以来だったことを思い出した。テレビ視聴に埋没している高齢者こそ、刺激をうけるべきと自省する。


 それにしても、だ。と年寄りらしく愚痴を言いたい。まずは放映前のCM、予告の長いこと長いこと、10分は使っている。絞ってPRという手法は時代遅れか。次に料金が1100円なのは妥当と思うがドリンク類が高いと言わざるを得ない。そうやって儲けをだすのだよと知りつつ、ああ作品に付随するモノの多さよ。

参参参(十五)人は人によってしか

2023年04月09日 | 読書
 気温は少し下がりましたが、木の芽は赤くなり始めましたね。
 でも、まだちょっとしか浮き浮きしない…


『「つなみ」の子どもたち』(森 健  文藝春秋)

 東日本大震災から二か月後に、文藝春秋が被災した子どもたちの綴った作文を「つなみ」と題して臨時増刊号を発刊したのは印象深かった。その年度の地域文集の巻頭言にそれをもとに「作文」の意義について少しだけ触れたことも覚えている。読み直したら当然とはいえ、そこには「所詮は当事者性を欠いて」いる自分の姿があった。この本は年末に発刊され、震災からおよそ半年間のことが、作文を書いた当人というより家族全体の物語を描き出している。衝撃的な出来事がリアルに迫ってくるだけでなく、人間の受け止め方の多様さが滲み出てくる。最終的に「人」は「人」によってしか救われない…多くのエピソードが物語っていた。



あのゴミ焼却場がなくなって…こんなに…

『銀河鉄道の父』(門井慶喜  講談社)

 著者も本の存在も知ってはいた。賢治には相応の興味を持っているので、もっと早く手にしてもよかったのだが…。映画化という世俗的な話題につられて読むのもまあいいだろうとページをめくると、今まで読んできた賢治に関する評伝的なものとはずいぶんと違う印象をもった。もちろん小説であるし、父の視点が多いわけだから当然とは言える。それ以上に、この作家の持つ文体の特徴におっと思わせられた。(   )の多用。心の声として使うことは学校の作文でも一手法として教える。他の小説でも見かけるが、それが見事な描写となっている。私の中の賢治像が膨らみをもった一冊だった。



『つながる技術』(小山薫堂  PHP研究所)

 この頃BSフジ『東京会議』もあまり観なくなったので、ちょっと懐かしさ(笑)を感じて読んでみた。10年以上前の著書だがその姿勢はちっとも変わらない。書名にある技術の観点を「出会い」「想像力」「運」「人間力」「ハート」「夢」と区分しているが、基本的に一緒である。ありきたりだが、ポジィティブと括られる。「マイナスには、チャンスの種がたくさんつまっている」という思考ができれば、人は何事も焦点化し前進していく。この本が出た頃は高校生だった一人の若きスーパースターが語っている言葉と、とてもよく似ていると気付いた。日本中いや世界中に魅力を振りまいてくれる大谷翔平である。

つつがなく入学式は

2023年04月07日 | 雑記帳
 町にある4つの小学校、唯一の中学校では今日が入学式。残念ながら小雨模様になった。昨日はそれを意識し蔵書紹介をアップする。振り返れば10回入学式で挨拶した。誰が行っても大方の流れは似ているだろう。最初は新入生に語りかけ、それから保護者や周囲に向けることになる。前半はちょっとした工夫が欲しい。


 小道具を使ったり、小規模校では一人一人と握手してみたり、在校生に返事の模範を示させたり、しかし色々目先を変えてはきたが伝えたい内容に相違はない。楽しい学校生活にするために仲よく安全にといった心得が中心だ。従って普通は記憶に残らない。あるとすれば個人的な失敗、もしくはアクシデントだろう。




 教員として列席した入学式はほとんどつつがないものだった。思い出せるのはある分校でのこと。遅れそうになった母親が、派手ないでたちで自転車の後ろに我が子を乗せてきた光景ぐらいか。映画のカットのように浮かぶのは、それほど際立っているからだ。そう思うと、氏名点呼間違いは結構大きな「傷」だなあ。


 一年生を唯一担任したときではない。自分が一年生になる入学式で点呼する担任の先生が間違えた(らしい)。私には印象はないが、亡き母が語ってくれたことがある。世代的にもごく平凡な「晴夫」という名前を、どう読み間違えるというのか。昭和36年、今のように自由な読み方が考え付く時代でもなかったろう。


 点呼は「せいてん」だったという。ああ、手書きで名簿をつくる時代だし、「晴天」と記すことは考えられなくもない。なんせ新入生は120名を超していたはずだ。まあ一度目を通せば避けられただろうが…と言いつつ案外このエピソードを私は気に入っている。生まれた日は快晴だったと教えられたことも信じている。

令和五年清明日録

2023年04月05日 | 雑記帳
 桜の開花が早まっている。気温が高くなる傾向はずっと続いていて、春はあっという間に過ぎ、すぐに夏感覚になることに体も心も慣れてしまったか。この国の社会良識と同様に風情も失われていく。月曜朝刊「評伝・坂本龍一さん死去」の中に書かれた一節「日本はまた一人、ものを言う自由人を失った。」が重い。



 日当たりのいい場所ではもう芝桜が…


 振り払うことは簡単ではない。とは言え今日は「清明」。「草や木、水などが清く明らか」であることは守り続けていきたいものだ。新年度の挨拶などを恒例儀式的なことと捉えられず、螺子を巻くいいチャンスにするべきだ。なんと今日は「デビューの日」だと言う。この由来が面白く、館のブログに書き込んでみた。

 思い立ったがデビューの日


 「〇月〇日は何の日」というサイトは多くあり、蔵書紹介のネタとして紹介している。今日4月5日も複数あり「ヘアーカットの日」もその一つ。しかし面白いのは、これが明治期の「女子断髪禁止令」の出た日を由来としていること。さらに興味深いのはどういう団体が制定したか、全く不明なこと。それってあり??

 あの日の公文書(国立公文書館ニュース)

 さて、デビューの日を記念して何か…と新しい趣味を探し出すのは、やはりこの齢では億劫になる。前々から手をつけなければと考えていたワークがあるので、その手始めにしようかと思い立つ。「いつか」は常套句に使えない。小椋佳の30周年記念アルバム「DEBUT」の表題曲のサビの歌詞は、こんなふうに唄う。

 ♪D-E-B-U-T 遅ればせの デビューだけれど
  D-E-B-U-T 洗いざらい 君に曝(さら)そう♪



 ふと「曝す」ことがかつて自分のキーワードだった(ブログも含めて)ことを思い出した。全て曝していくとはもちろん「傷や罪」も意識することで、それを一つのバネとする姿勢だった。と思い出すとずいぶん足腰が弱まった。今さらそうした行為が何を後押しするのか考えると躊躇する。まずは、踏み出してみて…。

参参参(十四)少々のブラッシュアップ

2023年04月03日 | 読書
 先月末までに読了した3冊。どれもささやかなヒントをもらえた気がする。


『明日の子供たち』(有川浩 幻冬舎)

 児童養護施設を舞台とした小説。営業職のサラリーマンを3年で辞め指導員になった三田村の着任から書き出されている。施設の職員、子どもたち、それぞれの現実と背景を織り込みながら話が進む。三田村の認識は、多くの読者と共通するだろう。施設の子を「可哀そう」と感じ優しさをかけたいとごく自然に思う者の言動は、個別的な関わりだけでなく、将来の展望や国の施策にまで影響を及ぼしていると知らされる。「親に捨てられた」のではなく「子供を育てる能力のない親がいる」という現実をシビアにみること。そしてその連鎖。実にわかりやすく、ささやかな希望も見いだせる一冊だった。




『生きづらさについて考える』(内田樹  毎日文庫)

 2019年の単行本発刊。今年になって文庫化された。ブログチェックも時々するので、同じ文章を見かけているように思う。そうであってもウチダ教授の一言はいつも刺激的だ。モノ、コトの見方を常にブラッシュアップしてくれる存在である。いくつかメモしているが、ここでは「僕が家庭科を大事だと思うわけ」の一節を残しておこう。家事能力が極めて低い自分であり、学校退職後も相変わらずだ。ほんの少しだけの分担に、この言葉を重ね合わせるのは生意気だと思いつつ、唸った。「家事というのは、本質的には、他人の身体を配慮する技術なのだと思う。」二人暮らしの身分は、いかに配慮されているかってことだ。



『孫をめぐるおとなの作法』(毛利子来 ジャパンマシニスト社)

 「作法」とは「心得」とか「マナー」とは違い、「現実に見合う知恵と技」の意味であることが、「はじめに」に記されている。Ⅰ章「うちあけ話 毛利さんちの場合」が示すように、肩に力を入れず坦々とした、孫育てや家族とのつきあい方が内容である。際立つような教育には思えなかった。しかし、Ⅱ章で語られている心構えこそが個の知恵や技を発揮させる。それは主に、孫の親つまり自分の子どもとの関係において、顕著である。「育てかたちがってよい」「ルールを決めておく」「責任にとらわれない」…こうした軸がぶれなければ、今まで生きてきた知恵や技は、孫育てに駆使できるのである。



今年の四月馬鹿日記

2023年04月02日 | 雑記帳
 土曜はイベント開催時しか出勤しないシフトだが、何しろ年度初日なので担当しているエントランス掲示を仕上げに出向いた。毎回ながらタイトル貼り付けに難儀し、2時間以上も掛かる。予定では1時間ぐらいで済ませ、帰宅しタイヤ交換をと目論んでいたが、初っ端から狂う。仕方ない。昼風呂読書でもするか。

 今年の図書館掲示はこんなタイトルで

 今、読んでいるのは2冊。図書館から借りてある『銀河鉄道の父』と、まとめ買いした一冊50円の『「つなみ」の子どもたち』。どちらもなかなか面白く、比較的落ち着いた読書をしている。半面、未読本だらけの状態で、借りてある単行本が2冊、ネットで注文した11冊、古書店で5冊、積読ばかりが充実する。


 午後からは録りためたドラマなどを観る。NHK『幸運なひと』…がん患者の教師を取り上げた話は興味深かった。「幸せ」とはニュアンスが違い「幸運」はもう一歩強さを含んでいる。引き寄せ感が大きいとでも言うのだろうか。生田斗真と多部未華子という夫婦配役もよろしい。調べたら、来週地上波で放送とのこと。


 夕刻になりさあタイヤ交換と準備を始める。身体が動くうちは続けたい。ところが、一つ目のタイヤ外しに取りかかっている途中、油圧ジャッキが思うように上がらない。一本外したままでちょっと抜き差しならない状況に陥る。手動式ジャッキを持ち出し、どうにか抜け出したがそれで1時間半。もはや力は尽きた



 「エイプリルフール」の訳語としての「四月馬鹿」。foolというと「愚かな人」というイメージが強い。その意味でまさに四月馬鹿な一日だったと寝床につきながら思う。余裕を考えて時間を見積もりなさい、道具はチェックしておきなさい、常々の点検も忘れずに…何度も繰り返したが諦念せぬこと。4月が始まった。