百醜千拙草

何とかやっています

等価像

2007-05-02 | 研究
遺伝子変異マウスの細胞の異常を見つけようと顕微鏡をずっと覘いていました。個体レベルで異常がでるのは間違いないのですが、細胞レベルでも形態的な異常が認められるのではと思ってひたすら見ていました。同じ組織と言っても細胞は一個一個違った形をしているので、何かおかしいように見えても異常なのか、正常の変動の範囲内なのか、あるいは組織標本をつくる時のアーティファクトなのか、簡単に判断がつきません。科学は一応は方法的懐疑によって誤った解釈を消去していって正しい結論に到着していくので、沢山ある可能性をひとつひとつ検討していくのは結構時間がかかるし、答えは常に白黒はっきりするわけではないので、判断保留の解釈が複数残ってしまうことも多いです。そうしていても毎日進んでいかねばならないのでそうした解釈はとりあえず「括弧に入れて」次にいくようにしていますが、最後まで解決つかないことも多々あります。顕微鏡を覘いていて「懐疑的に検討するということ」を考えていて思い出した事があります。組織学の最初の授業でした。組織学だから顕微鏡で見た世界について研究するわけです。顕微鏡を使う心構えというか、そういったものについて最初に話があったのです。当時医学部の教官にはまだドイツ語で教育を受けた人も多く、黒板にかかれたのはドイツ語で「Aquivalent Bild (Aはウムラウト)」だったと思います。日本語だと「等価像」とでもいうのでしょうか。顕微鏡による観察法が科学に導入されたころ、「顕微鏡を覘いて見た世界が本当に実在するものと同じかどうか」という顕微鏡技術そのものへの懐疑に対する答えを先人はまず求めたのです。結果として「顕微鏡で覘いた世界が実在していると断言することはできない」という結論に達した訳です。しかしそうは言っても、私たちは顕微鏡で見ているものがまぎれもなく顕微鏡のステージの上に乗せたものであるという常識的な確信をもっており、見えている像はそれを拡大したものであると信じています。先人ももちろんその信念はあったのでしょう。しかし論理的に証明はできないという結論だったわけです。このへんの哲学的議論は大変興味深いのですが、一方、科学はempiricalなものですから、証明できないから顕微鏡での観察には意味がないと結論するわけにはいきません。その妥協案が Aquivalent Bildなわけです。つまり、顕微鏡で見えた世界が実在するものの拡大であると証明はできないが、あきらかに対応関係があるので、顕微鏡で見えた世界は実物と等価と見なそうという実際的な解決案です。今や顕微鏡の観察法に対してわざわざ「見えているものは虚像かも知れませんよ」というような実際の研究に役に立たないことを教える教官はいないかもしれません。しかし常識というものを疑ってみることは時に科学の分野では有効ですから、そうした先人の心構えを知っておくことは悪いことではないと思います。疑ってみた上で最終的に常識的な結論に到達するのが望ましいのだろうと思います。
顕微鏡で見る細胞の像が信じられなくなってきたので顕微鏡のせいということにしてみました。
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