何年か前、日本で流行ったという「国家の品格」という本を読みました。何かと共感する部分が多かったですが、正直この本が日本で流行ったということがピンときませんでした。この本が支持されるということは、アメリカ流市場主義に対する人々の反感の現れであると思われたからです。にもかかわらず、実際の日本の社会の有様を見ていると、未だにアメリカのシステムを無理矢理まねして導入し続けているのですから、外から見るとそれほどに反アメリカ勢力が大きいとは思えなかったのです。しかしよく考えるとアメリカ流を導入しつづけているのは現場を知らないお役所なわけですし、実際の現場ではそのトップダウン式のやり方に迷惑しているのは知っているので、日本国民の多くがアメリカ流に反感を持っているというのも頷けない話ではありません。本の中で著者はPatriotismとNationalismを区別して議論していますが、私はPatriotismというのもヤバいものではないかと思っています。近代構造言語学の大御所であるNorm Chomskyは、ベトナム戦争以来、アメリカの対外政策およびマスメディア批判を続けています。自身を Libertarian socialism、つまり政治的、経済的また社会的階層のない社会を理想とする主義であると述べています。つまり反経済主義、反国家主義なわけで、anti-patriotismです。まず実現することはない社会の形であるとは思いますが理想と主義を持つことは大切です。こうしたanti-patriotism、マスメディア批判、アメリカ国策の批判のため、これだけの著名人であるにも関わらず、Chomskyはアメリカではメディアから黙殺されています。アメリカのマスメディアは政党のプロパガンダ機関で、国家というものを利用して金儲けをしようとする政治家とその仲間の手先ですから、反国家主義のChomskyを引っ張り出してくるわけがありません。そもそも国家というものにはそもそも実体はないのですから「日本国民としての誇りを持とう」などという言葉は、国民を操作するための政治的プロパガンダとしか聞こえませんし、事実そうでしょう。実際に存在しているのは、自分の家族や育った場所などに対する非常に個人的な愛着です。それがたまたま日本の国の中にあるからと言って、国家とかいう概念には繋がらないし、繋がるべきではないでしょう。PatriotismとNationalismを分けることは概念上、可能でしょうが、実際にはこれらは言葉の綾の範囲を出ないと思います。これを混同するなと言う方が無理でしょう。悪い事にNationalismは国家的利己主義であって具体的な意味がはっきりしているに、Patriotismは具体的でありません。早い話がPatriotismという言葉はNationalismの悪いイメージを隠すために用いられているだけの言葉なのだだと思います。
ところで、「国家の品格」を思い出したのは、その中でイギリスのことが触れられていたからでした。イギリスが伝統を大切にし経済的には斜陽であっても他の国から尊敬されている国の例としてあげられていたのです。現在、そのイギリスのエリザベス女王II世が訪米中で、アメリカ大統領が昨夕、ホワイトハウスでの晩餐会を開きました。大統領任期中初の白ネクタイ着用での晩餐会となり、ひときわ絢爛豪華なもてなしであったということでした。ニュースでは"Pomp and circumstance"と形容されていましたが、この言葉も原典をたどれば、イギリスのシェークスピア、オセロの中の言葉です。今回の晩餐会を見ても確かにエリザベス女王は別格の扱いであり、そこにイギリス王室に対する尊敬みたいなものが窺えます。そうした尊敬の念は一朝一夕に生まれるものではなく、尊敬に値する行いを長年に渡って行った故の結果であろうと思います。翻って日本はどうでしょう。日本という国が他の国から尊敬されているとはとても思えません。しかし、個人のレベルでみれば、尊敬されている日本人は沢山います。アメリカも同じだと思います。国家というのはいわばオートポイエーティックな動的なentityであって、実体はないものだと思います。 理想を言えば、「国家」などという言葉は無くなってしまう方がいい。日本にあるのは様々な個人の集まりであってそれぞれが異なった文化と習慣の中に生きているのです。同じような顔をして、同じような言語を使い、同じような文化を持っていても、それは日本という「国家」があるからそうなったのではないのは明らかです。「国家」という概念は、他の国からの侵略や攻撃に対しわが身を守るための共同組織としてそこに住む国民の利便を図るために意図的に生み出されたものであって、自然発生的な共同体とは異なるものだと思います。仮に「日本」という国家が消滅しても、日本語はそこに人がいる限り無くならないし、トヨタやソニーは残るでしょう。むしろ「国家」という概念は、国民を搾取しようとする権力側にいる一部の人間にとって非常に都合のよい道具であることが、アメリカの様に政府があからさまに情報操作行って国民をコントロールしようとしている国を見ていると実感されます。ジョンレノンの歌うイマジンのように、国がなければそんなもののために生きたり死しんだりすることはないのです。そういう理想郷が実現できるとはとても思えませんが、少なくとも私たちは「愛国心」とか「国家」とかの実体不明のものを盲目的に信奉することを止めるべきでしょう。
ところで、「国家の品格」を思い出したのは、その中でイギリスのことが触れられていたからでした。イギリスが伝統を大切にし経済的には斜陽であっても他の国から尊敬されている国の例としてあげられていたのです。現在、そのイギリスのエリザベス女王II世が訪米中で、アメリカ大統領が昨夕、ホワイトハウスでの晩餐会を開きました。大統領任期中初の白ネクタイ着用での晩餐会となり、ひときわ絢爛豪華なもてなしであったということでした。ニュースでは"Pomp and circumstance"と形容されていましたが、この言葉も原典をたどれば、イギリスのシェークスピア、オセロの中の言葉です。今回の晩餐会を見ても確かにエリザベス女王は別格の扱いであり、そこにイギリス王室に対する尊敬みたいなものが窺えます。そうした尊敬の念は一朝一夕に生まれるものではなく、尊敬に値する行いを長年に渡って行った故の結果であろうと思います。翻って日本はどうでしょう。日本という国が他の国から尊敬されているとはとても思えません。しかし、個人のレベルでみれば、尊敬されている日本人は沢山います。アメリカも同じだと思います。国家というのはいわばオートポイエーティックな動的なentityであって、実体はないものだと思います。 理想を言えば、「国家」などという言葉は無くなってしまう方がいい。日本にあるのは様々な個人の集まりであってそれぞれが異なった文化と習慣の中に生きているのです。同じような顔をして、同じような言語を使い、同じような文化を持っていても、それは日本という「国家」があるからそうなったのではないのは明らかです。「国家」という概念は、他の国からの侵略や攻撃に対しわが身を守るための共同組織としてそこに住む国民の利便を図るために意図的に生み出されたものであって、自然発生的な共同体とは異なるものだと思います。仮に「日本」という国家が消滅しても、日本語はそこに人がいる限り無くならないし、トヨタやソニーは残るでしょう。むしろ「国家」という概念は、国民を搾取しようとする権力側にいる一部の人間にとって非常に都合のよい道具であることが、アメリカの様に政府があからさまに情報操作行って国民をコントロールしようとしている国を見ていると実感されます。ジョンレノンの歌うイマジンのように、国がなければそんなもののために生きたり死しんだりすることはないのです。そういう理想郷が実現できるとはとても思えませんが、少なくとも私たちは「愛国心」とか「国家」とかの実体不明のものを盲目的に信奉することを止めるべきでしょう。