百醜千拙草

何とかやっています

防御は攻撃の基礎

2007-05-26 | 研究
しばらく前にプロの棋士(碁)の誰かが言ったことで、「囲碁での攻撃は動きではなく状態であり、攻撃するとは相手に比べて優位な状態にあることであって、故に自陣を固めていくことがしばしば優位に立つこと即ち攻撃につながる」というような言葉があることを知りました。即ち防御こそ攻撃の基礎ということです。攻撃は最大の防御という言葉はおそらく短期決戦にはあたるかも知れません。しかし勝負が連続している実社会においては、防御を第一に考える方が戦略的に正しいように思います。孫子も「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と言っています。どこからやってくるかわからない敵を知ることはしばしば困難ですが、己を知りそれを固める事は(現実は難しいものでしょうが)理論上は常に可能なような気がします。己を固める事は、研究者としての生き残るための最大の攻撃だと思います。研究者にとっての世間一般的な意味での「勝ち負け」は、競争資金の獲得と論文の発表にあります。しかしこれらも基本的には研究の内容の善し悪しが最終的には決定するので、レトリックやお化粧で一度二度は勝てても、長期的に勝ち続けることは難しいです。研究における攻撃はレビューアーやピアに発見の意味をアピールし説得することですが、常に懐疑的に研究成果を評価される研究社会では、レビューアや論文読者がこちらのいう事をそのまま納得してくれることはまずありません。逆に彼らは弱点と思われる場所を攻撃してくるので、結局はその懐疑に耐えるだけの防御力が勝敗を決定していきます。自分の弱点と思われるところを発見できる能力とそれへの対処能力を身につけるには、勝負経験、しかも負ける経験が必要です。自転車に乗ることを覚えるのと同じで失敗を繰り返す事なしには身に付かないものだと思います。それが研究者としての基礎体力であると思います。つまり如何に攻撃を予測しそれに対応できるような研究をしているか、あるいは打たれ強い研究をしているかいう点が研究の完成度、質を最終的に決定するのだと思います。アイデアはよいのだけれども、研究としてなっていない論文原稿をしばいば目にします。自然科学においては、アイデア(思いつき)は確かな実験結果として示されなければ、何の価値もありません。攻撃に出たが自陣が疎かになってしまった、そんな感じです。ごまかして株価を上げてみたが実体はなかったというある会社みたいです。そうした論文原稿を見て思う事は、著者自身がその論文の基礎の部分の危うさに気がついていないことが多いことです。砂上に楼閣を築くかのように、その危うい部分を少し叩くと、ぼろぼろと崩れ去ってしまうような論文原稿が結構多いのです。反対にリアルタイムで浮かんでくる疑問に対して答えが常に用意されているような論文は読んでいて気持ちのよいものです。たとえ発見の内容がそれほどでなくても、しっかりした研究であることが感じ取れれば、その論文や著者に対して好感を持ちます。
どんな懐疑に対してもどっしりとして揺るがないような研究を自信を持って示せるようになることが理想です。(言うは易しですが)
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