百醜千拙草

何とかやっています

余裕のない社会

2007-05-19 | 研究
研究の分野ではよく「publish or perish」と言われます。論文を書かなければ生き残れないということなのですが、この言葉が示すように、残念ながら研究者は論文出版競争、研究費獲得競争に勝っていかなければ研究を続けられません。効率の点でこの競争はある程度必要なのは間違いないのですが、以前述べたみたいに今日のように競争が激しくなってくると、研究の中身はともかく勝ちさえすれば良いと考える人が増えてきます。競争に勝つと自分は他の人よりも偉いような気がしてくるようで、そうするとますます増大するEgoのため、より大きな競争に勝ちたいと思うようです。人間の欲望は限りがないです。その欲があるからこそ辛い努力もし、科学も進歩してきたのですから、人間の欲望は積極的に認めていくべきなのだとは頭ではわかるのですが、昔からその欲望充足を追求していった先にあるのは自滅だと確信しているので、素直にそれを追求している人を見ると目を背けたい気持ちになるのです。研究活動は基本的には、観察事実からいかに面白い話を作れるかというゲームなのですが、ゲームそのものには勝ち負けはありません。あるとしたら自分が納得がいく話ができたかどうかという自己満足でしょう。昔の競争が比較的緩やかだったころは、研究者はそうしたゲームを楽しみながら食っていけるという特権階級だったのですが、競争の激化に伴って研究者は限りある研究資金を奪い合う敵どうしみたいな空気が強くなってきてました。長年研鑽して下積みを重ねても、殆どの場合金銭的には全く報われないし、研究を楽しむことも困難になってきていては、何のために研究者をやっているのかと思う人が増えてくるのも無理はないと思います。ある著名な研究者が、研究と性行為の類似点として、「どちらも時折、素晴らしいものが生まれるが、普通はそれを目的として行うものではない」と言ったそうです。研究はやはり研究することそのものに意味があって、根本的に何かに役立てるためにするというものではないのです。社会がこうした「無駄」というか文化というかそういったものを尊重する余裕がだんだん無くなってきているのですね。残念なことです。
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