先日、「国家の品格」を読んで多少の感想を述べました。その中で強調されている家族愛や祖国愛に私は何か引っかかるものを感じていて、それが何故なのかしっくりわかっていなかったのです。愛国心が怪しいものであることは述べました。人類愛が怪しいのと同じです。しかしそうした概念上だけからでも怪しさが指摘できる場合と違って、例えば家族愛や故郷への愛着というものは一見分かりやすいと思われるにもかかわらず、もっと各々のケースを実際に見てみればその実体に大きな幅があることが見て取れるのではとふと思ったのです。人間がどうして争うのか考えていた時、この間のVirgina Techでの無差別殺人事件をふと思い出しました。大学の学生であった犯人は、異常に孤立していました。友人もなく誰ともしゃべらず、まわりの人間に対して抱いていたのは憎しみだけでした。しかしこの犯人も20年ばかり生きてきたわけで、その間にはきっと楽しかったことも少なからずあったに違いないと思うのです。きっかけはささいなことだったのかも知れません。友人に冷たくされたとか、無視されたとか、大人になってしまえば大した問題でなくても、思春期の子供には大きく堪えることもあるでしょう。大人であれば友人に冷たくされたなら、他に友人を探すとか、自分の欠点を改めるとか、自分の責任というものを知って改善法を見つけようとするでしょう。憎しみが健康に悪い事は大人は知っています。しかし、もっと子供だったらどうでしょう。例えば幼児だったら。親のない子、実の親から虐待される子供、そんな例はいっぱいあります。その子供たちにどんな家族愛を期待するのでしょう?自分の育った地域社会で差別されてきた人々、地域の人に受入れてもらえず、他にも行く場所がなく毎日辛い思いで生きてきた人々にどのような郷土愛期待すればよいのでしょう?日本人として日本に生まれ育ったのに、その日本から理不尽な仕打ちを受けてきた人々は、どのような祖国愛を持てばよいのでしょう?愛を持ちましょうと言うのは簡単だし、言われなくても自然と持っている人は幸せだと思います。家族や故郷や祖国に憎しみしか持てない人もいっぱいいるのではないでしょうか。その感情を理屈で押さえようとしてもそれは無理です。Virgina Techの乱射事件は、犯人の異常に蓄積した周囲への憎しみを感じます。大人の眼から見れば、マイナスの感情をうまくコントロールできなかったその犯人が悪いというでしょう。しかし感情というものは大人でもコントロールするのは難しいのです。振り返ってどうしたらこの事件が防ぐことができただろうと考えても、困った事に答えが見つかりません。こうした事件は防ぎようがないという結論が正しいように感じます。仮に99.999%の人が、コントロール可能なレベルの憎しみしか持っておらず、幸いにも家族や故郷への愛情を持っており、日本という国に対しても悪く思っていないとしても、10万人に一人はやばいのです。そういう人は自殺したり、他に害をおよぼしたりする可能性があるわけです。早い話が99.999%の人に家族愛や祖国愛を説く必要はない。それらの人はそれなりに社会に適応しそれぞれの生活を営んでいきます。家族愛や郷土愛は自然な愛着であって、言われて身につけるものではないと思います。そういった感覚を持っている人にはそれをあらためて言ったところで大して意味はないでしょう。問題なのは、不幸にして家族愛や郷土愛を育むことのできなかったごく一部の人で、そういう人には、家族愛や郷土愛についてそれを感覚的に知っている人間がいくら説明してもわかってもらえないものだと思います。私はと言えば、日本の嫌なところは山のようにあります。故郷の好きなところもありますが、嫌いなところも結構ありました。何事に関しても好き嫌いあるのが当たり前で、そうした個々の好き嫌いを超えた愛というものが本当にあるのか私にはよくわかりません。家族の絆というのならわかります。しかしそれは必ずしも愛とイコールとは限りません。家族のつながりは、きっともっと複雑でもっと多様なものだと思います。
家族愛や郷土愛を育むにはそれなりの恵まれた環境がまず必要なように思います。最初に愛されることによって愛する事を学ぶのだと思います。そうした感情が尊いものであることに異論は全くありません。しかし、そうした感情を(愛情にかぎらずすべてに感情においてそうだとおもいますが)意識的に育てようとしても育つものではありません。感情がそう容易にコントロールできるなら世の中に争いは起こらないでしょう。私たちができるかもしれないことは、家族愛や郷土愛を持ちましょうというような、私たち自身がコントロールできないことではなく、憎しみや恨みといったネガティブな感情を解消してできるだけゼロに近づけることでしょう。もし不幸にして家族愛や郷土愛を与えられることなく、故にそれを育むことなく育った人にとっては、最初からないものを作り出せといっても困難でしょう。それよりは良くない感情をコントロールする方法を身につけることを考える方が実際的なように思うのです。
「国家の品格」の中で、著者は、祖国を愛さない人は失格だみたいなことを述べていますが、私は以上のような理由から、それは偏狭な考えだと思います。現代人に求められるのは、他人の価値観を尊重できる許容力であり、祖国が好きでなくても、家族に愛情を感じられなくても、それは感情の問題なのだから、それでもいいんだよと思える力ではないかと思うのです。
家族愛や郷土愛を育むにはそれなりの恵まれた環境がまず必要なように思います。最初に愛されることによって愛する事を学ぶのだと思います。そうした感情が尊いものであることに異論は全くありません。しかし、そうした感情を(愛情にかぎらずすべてに感情においてそうだとおもいますが)意識的に育てようとしても育つものではありません。感情がそう容易にコントロールできるなら世の中に争いは起こらないでしょう。私たちができるかもしれないことは、家族愛や郷土愛を持ちましょうというような、私たち自身がコントロールできないことではなく、憎しみや恨みといったネガティブな感情を解消してできるだけゼロに近づけることでしょう。もし不幸にして家族愛や郷土愛を与えられることなく、故にそれを育むことなく育った人にとっては、最初からないものを作り出せといっても困難でしょう。それよりは良くない感情をコントロールする方法を身につけることを考える方が実際的なように思うのです。
「国家の品格」の中で、著者は、祖国を愛さない人は失格だみたいなことを述べていますが、私は以上のような理由から、それは偏狭な考えだと思います。現代人に求められるのは、他人の価値観を尊重できる許容力であり、祖国が好きでなくても、家族に愛情を感じられなくても、それは感情の問題なのだから、それでもいいんだよと思える力ではないかと思うのです。