百醜千拙草

何とかやっています

大学人の言動には社会的責任があると思います

2008-10-31 | Weblog
ちょっと古くなってしまった話ですが、池田清彦さんや養老猛司さんの環境問題に関する本について、思ったこと。
「構造主義生物学」についての本で池田清彦さんを知ったのは、もう15年以上は前と思います。科学とは何かということを深く考えるとどうしても哲学の問題となってしまいます。その辺でひっかかって、実験科学者から道を踏み外した人が少なからずいます。私の「構造主義生物学」の印象は、これらの試みは生物学とは書いてあるが、生物を客観的な立場で研究する「生物学」とは、関係ないということでした。結局、池田さんらの「構造主義生物学」がやっていることは生物学とは何かということをあれこれ考えることであって、普通の生物学者が目指していると思われる目標への到達に役するものでありませんでした。「構造主義生物学」というのは、実は「生物学という学問を構造主義的観点から考え直そうという生物学学なのであって、生物学そのものではないようでした。構造主義生物学などと振りかぶらずに、正直に「構造主義的科学論を生物学者が論じている本」とでも書いてくれればよかったのに、と何か騙された様な気になりました。ちょうど宇宙の果てに何があるのかを考えるのと同じように、生物学を極めたらどこに行き着くのか、そんなことを考えることも必要なのだろうとは思います。とりあえずその思考は目の前の生物現象を理解したいという普通の生物学者の欲求には役立たないので、生物学者からは評価されないのでしょう。その後、池田さんの本は全くフォローしていなかったのですが、数年前に環境問題についての本が出ていることを最近になって知りました。とりわけ地球温暖化の影響と温室ガスの温暖化への寄与について懐疑的な意見を述べられているようです。「環境問題のウソ」とかいう名前の本です。ちょっとびっくりしました。へそ曲がりで人と違うことを考えるのが好きな人なのだろうとは思っていましたが、こういうタイトルのついた本を一般人向けに出版するという態度は、大学人としてはいただけないのではないかと思いました。言論の自由が大切であることは間違いありません。しかし、それは何を言ってもいい、ということではないと思います。大学の肩書きを使って学問の徒が一般の人に語りかけるということは、良識と誠実さと責任が付随する行為であるはずだと信じています。一般人に本を売るために扇動的なタイトルをつけて大学の肩書きを使うならば、医学博士と大腸内視鏡第一人者の肩書きを使って、健康食品を病気でもない人に売って商売しているH.S.先生とかわりないと思います。つまり、中身が問題なのではなく、大学教授という立場の人が、「環境問題のウソ」というタイトルで本を出したということそのものが問題であると私は思います。科学的に十分な裏付けのないようなタイトルを論文につけたら、タイトルを変えろと言われる世界にいる人間にとっては、もと科学者ともあろう人が専門外のことを「ウソ」と断じるような本を出版することの無責任さには失望を感じます。(生物学は科学とは言えない部分の方が多いので、生物学者は科学者とは限りませんが)

アルゴアは金星と地球は組成的には、殆ど同じであるが、金星の表面温度は800度Fもあるといい、大気という極めて薄い空気の層が地上の環境を極めて狭い範囲にコントロールするのに重要な働きをしていると言います。地球規模でみると大気の容量は微々たるものですから、地球の環境維持能力というのは有限なのです。一方で、「金星の温度から比べたら、地球の温度が一度や二度上がることは大したことはない」そんな考え方をする人がいるのもおかしくはないと思います。そういう人は、地球には60億もの人間がいるのだから、自分自身や自分の肉親がいわれのない拷問にあって、苦しんで死んでも、大したことはないというのかも知れません。地球の過去には、もっと厳しい気候もあったのだから、今の温暖化など大したことはない、グリーンランドの氷が融けて、海面が数メートル上がって、多くの海辺の都市が水没しても、地球規模でみたら大したことはない、そういう考えに欠けているのは、人間の視点です。地球が氷河期になろうが、温度が数度上がって、人類が絶滅しても、地球規模でみたらもちろん、大した問題ではありません。大昔には人類などいなかったのでしょうし。しかし、毎日生活している人の身になってみれば、環境破壊によって昨日できたことが明日できなくなって、それによって自分や身の回りの人が不便を被る、あるいは自分たちの子供たちが環境破壊のツケを払わないといけなくなるかもしれないということは大問題であると思います。そういう危機が近い将来に起こってくることを示唆する科学的データが多数あるにもかかわらず、わざわざそれに異議を唱えて、一般向けの本にして意見を広めようとする態度には賛同できません。私たちの子供のころと比べても随分、自然は破壊され、多くの生物が地上から消え去りました。北極付近では氷がどんどん解けて、生態系は影響をうけ、野生の生き物がまた絶滅しようとしています。父母から受け継いできた地球を汚さずにできるだけきれいなままで次の世代に渡したいというのは、ごく自然な人間の感情ではないでしょうか。汚したり壊したりするのは、きれいなまま保存するのの何倍も簡単なことで、地球を汚さないように気をつける習慣を身につけるのは、なかなか容易なことではありません。今、ようやく人々が反省して地球をきれいに使おうと思い始めた時に、その気分に逆行するような論調の本をわざわざ出すのは、大学人として思慮が足りないと私は思います。
多くの人が認識している環境問題の理解の仕方が必ずしも正しくないというのはそうでしょう。著者も「環境問題そのものがウソである」というのではなく、環境問題が正しく人々に伝わっていないことを伝えたいという意図なのであろうと想像します。私がまずいと思うのは「環境問題のウソ」とか「本当の環境問題」とかという誤解を招くタイトルそのものです。そう書かねば本が売れないのでしょうが、ウソとか本当とかいう言葉を使うと、あたかも「真実は一つで世の中の人はウソを信じているのだ」というウソを主張しているように見えます。
 また著書の中の一つの主張である、例えば、「人間の活動が温暖化を促進している」という結論が「十分科学的に立証されていない」という反論は正しいと思います。ただし、この問題の場合、「証拠がない」ことは「ないことの証拠」ではありません。「人間の活動が温暖化を促進している」という確たる証拠が上がるまでは、「疑わしくは罰せず」という態度でいるならば、手遅れになるでしょう。確たる証拠はなくても、示唆的な証拠は沢山あります。やっても効果があるかどうかやってみないとわかりませんが、できることがあるのにやらないのは怠慢です。仮に本人が温暖化や環境問題というのは大した問題ではないと信じていても、大勢の人が身の回りのゴミを拾っているのに、大学人という権威をもって、わざわざそれに水を注す様なことをいうのは、まずいことだと思います。本などにして一般人向けに売り出さずに、自分の家のふすまの下張りにでも書き付ける分には、誰も文句は言いません。
 池田さんや養老さんの本来の意図が、環境問題を別観点から見ようという提案であったとしても、誤解を招く様な本を誤解を招く様なタイトルで書店に並べることに、大学人としての良識の欠如を感じざるを得ません。「李下に冠を正さず」という言葉もあるでしょうに。
コメント
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