百醜千拙草

何とかやっています

信じることと疑うこと

2011-03-04 | Weblog
Templeton Foundationについては過去にもとりあげたのですけど、最近またNatureのゴシップ欄(http://www.nature.com/news/2011/110216/full/470323a.html?WT.ec_id=NATURE-20110217)に登場していたので。テンプルトン財団は株で大もうけしたJohn Templetonが「宗教と科学の融合」をめざして設立した財団で、研究グラントをだしています。私は。以前に宗教と科学は同じ平面状にないので、「融合する」というアイデアそのものがナンセンスだみたいな意見を書いた覚えがあるのですけど、このゴシップ欄でちょっと面白い表現を見つけました。因みに、私は「神様みたいなもの」を信じていますし、NIHディレクターのフランシスコリンズも敬虔なキリスト教徒ですが、宗教と科学の乖離のために分裂病になるというようなことはありません。同様にイスラム教の熱心な実践者である研究者もかつて友人におりました。ラマダンの間は彼らはフラフラになりながら実験していました。宗教と科学や科学研究は対立するようなものではないと私は思っております。単に次元の違うものだとは思います。昔読んだ池田清彦さんの本によると、宗教と科学は同じ構造をしているのだそうです。つまり、モノとモノとの関係を記述するのが科学で、神と人間との関係を記述するのが宗教だ、というような話だったと思います。「宗教と科学が対立する」という概念そのものに私は問題があると思います。

さて、このテンプルトン財団の研究グラントに関してのコメントですが、宗教と科学の違いについて、例えば、シカゴ大学のJerry Coyneはつぎのようなことを言っています。

「宗教」は教義と信仰に基づくが、「科学」は懐疑と疑問を抱くことに基づく。「信じること」は、宗教においては美徳であるが、科学においては悪徳である。


必ずしもそうとも言えませんが、なかなか言い得て妙です。実のところは、信じる何かがなくては科学も成り立ちません。しかし、現実的な面から言うと、とりあえず目の前の常識的な解釈を疑ってみる「方法的懐疑」という手段をとって、物事を理解していこうとする活動が科学研究であると言ってもよいと思います。例えば、論文のレビューにおいては、レビューアは示されているもののウラを読もうとします。提示されているデータの異なる解釈法がないか、ふつうあるべきなのに示されていないデータがないか、つまり「ないもの」を探しながら論文を読みます。そして、論文を読んで、そのないものが見つからないとき、私の場合は、その論文を高く評価することになります。レビューの経験からすると、そんな文句のつけようのない原稿を読んだのは過去に一度だけです。そういう論文を読むと、良くできた映画を見た時のような、何か得した気持ちになります。因みに、その論文の責任著者の人を私は個人的に知っていたのですが、とんでもない秀才で、私の人生で出会った無数の人々の中で最も「デキる」人でした。

宗教は麻薬だと言われますし、過去ヨーロッパでの戦争の多くは宗教対立によって引き起こされて来ています。日本においては仏教は幕府が日本人をコントロールするために使われました。宗教の名のもとに、多くの殺戮やテロが正当化されてきました。国家や社会のレベルでなくても、宗教のために家庭崩壊を来したり、教祖様に貢いで破産したり、という話は日常でよく見聞きします。一方、宗教のために救われた人々も数限りなくあることでしょう。科学も同様だと思います。火薬の発見は銃器に、核反応は大量殺傷兵器に利用され、大勢の人が殺されました。

これらは悪い「科学と信仰の融合」の例ではないでしょうか。盲目的な信仰に科学技術が利用された場合にこういうことがおきます。アジア人やユダヤ人は劣った民族であるので、人類の未来のために彼らを滅ぼすことが正しいとgenocideを正当化する狂信的な権力者によって科学技術は利用されました。「ポア」することは救済だとのおかしな理屈を信じた信者がサリンを撒きました。宗教と科学が相互作用する場合はその逆でなければならないと私は思います。盲目的に信じることによって、イワシの頭をありがたがるよりも、まずはイワシの効用を科学的に検討してから信じるべきだと思うのです。科学的態度が宗教的信仰に先ずれば、宗教の危険が減弱できるのではないかと私は想像します。逆に信仰が科学の上に立って支配しようとするとき、科学技術が誤って利用される危険が高まると思います。
 人でもドグマでも「信じる」という決断をする前に、とりあえず泥棒ではないか、ただのイワシの頭ではないのか、と石橋を叩いてみる、なますだと思ってもでもとりあえず吹いてみる、そういう習慣はトレーニングで身につけることが出来ると思います。

アメリカの植民地でありながら、戦後の経済成長のおかげで豊かになっていく生活と身辺5メートルの平和を享受してきた日本は、人をみて泥棒だと思う必要がなくなり、善良で素直な人々が増えました。真に安全で善良な人々ばかりが住む世界であれば、疑いを知らず善良で素直であることは最も尊い美徳であるでしょう。私もそんな世界に住んで天真爛漫に思いやりと信頼を持って生活したいものだと思います。しかし、実際の世界はそんな美しい場所ではなく、日本の一見豊かで平和に見える社会というのは、いわば、作られた幻想に過ぎないということが、経済成長が止まってから明らかになってきました。その幻想をずっと信じつづけたいという願望を「平和ボケ」と呼ぶのでしょう。信じることは疑うことよりも易しく、心理的抵抗が少ないので、人は疑う必要がない限りは、人は信じたいと思うのだろうと思います(それが社会的動物である人間のデフォールトの心理状態でしょう)。
 しかし、例えば、アメリカ原住民がヨーロッパからの移民によって土地を奪われ、虐殺され、保護地に追いやられたのは、疑うことを知らなかった彼らの善良性をヨーロッパ人に利用されたからでしょう。歴史が示すものは、「(無闇に)信じるものは、嵌められ、騙される」ということです。
 人はこの疑うことと信じることの技術を身につけて使いこなせるようになる必要があると私は思います。無闇に疑うことは己を消耗させますから、無闇に信じることと同様に危険で有害です。正しい「疑い方」によって疑わねばなりません。疑いは方法的に行い(よって疑いを信じ込まない)、信じるられるものの限界を見極めることができる能力を身につけることが大切だと思います。
方法的懐疑は「due deligence」に有用なテクニックであり、成熟した判断力の基礎だと思います。真の民主主義国家を目指すのであれば、国民の大多数が方法的懐疑というテクニックを身につける必要があると私は思います。

さて、マエハラ氏、ノダ氏、レンホー氏に、不正献金疑惑。この際、秘書を逮捕して強制捜査も入れてもらって、党員資格停止処分にでもしてもらいましょう。しかし、こういうニュースが出るといういうことのウラを懐疑的に考えると(別段、懐疑的に考えなくても自明ですけど)、当初の空きカンを捨ててマエハラ氏に首をすげ替えた民主党で対米隷属路線で行こうという計画を、敵は変更し、この際、民主を小沢氏ごと潰すという方針に変えたということでしょう。多分、既に禁治産者状態の空きカンやその後継内閣ではどうころんでも先がなく利用価値がなくなったので、民主党を徹底的に叩き潰してまた自民へ戻そう、敵はそう考えたのではないでしょうか。サンケイが、また民主党への批判を激しくしてきているのもそのせいかも知れません。次の総理の座を待ち構えていたマエハラ氏、空きカンの無能の煽りを喰らって一緒に捨てられてしまったようですね。これまで、小沢潰しに必死になってきた官僚や朝日新聞を始めとするマスコミは、平行してその攻撃を民主党全体に拡げ、統一地方選での民主惨敗と自民の復活を画策しようとしているように、私には見えます。

京大入試でのインターネットカンニングの事件。もちろんやったことは悪いに違いありませんが、警察を入れて逮捕までしたという話、「それは違うだろう」と私は思いました。大学での学問や思想自由は治外法権であって、それらを守るために、学内の揉め事には滅多なことでは警察を介入させない、というのが大学の伝統だと思っておりました。この事件の場合は受験生で、京大学生ではなかったわけですが、それでも京大の入学試験なのだから、そのintegrityには京大が責任を負うべきであって、十分なカンニング防止の策もとらずにおいて、問題がおきたら、警察を介入させて犯罪事件にするというやりかたに、私は京大も落ちたものだな、と思いました。カンニングしたら逮捕するとあらかじめ受験者に周知させていたとは思えませんし。むしろこの事件はこんな大胆不敵なカンニングを許した京大入試システムの方の落ち度だと私は思うわけです。受験生をみたらまずはカンニングを疑い、その可能性を消しておいてから彼らの良心を信じるべきだったのはなかったのでしょうか。こんな派手なやりかたでなくても、他の受験生の中にも何らかのカンニングをした受験生がいない筈はないだろうと想像します。この目立った一人の若者だけを吊るし上げて見せしめにするのが天下の京大のやることかと思うわけです。


どうでもよい話:
アメリカの人気の素人のど自慢番組、「American Idol」のseason 10がはじまっていますが、今年の男子はなかなか良いのがおります。中でも、Luther Vandrossがリバイバルヒットさせた「A house is not a home」を歌ったJacob Lusk君、若いのにこのテクニックと歌唱力、グッときました。美空ひばり流の流し目を使うところが、ちょっと私は気に入りませんけど。
JudgeのJennifer Lopez、「私の大好きなルーサーはもう死んでしまったけど、今は、君がいる!」と涙ながらのコメント。

http://www.examiner.com/billboard-hot-100-in-national/jacob-lusk-house-is-not-a-home-american-idol-2011-luther-vandross-video

ルーサーのビデオでは、この曲のオリジナルを歌ったDione Warwickがにこにこしながら見ていますね。昔は良かったなあ。
コメント
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