セクハラで失脚したD.S.氏のNYUでの雇用の可能性を報じたScience誌ですが、その後、D.S.氏のNYUへのリクルートメントに関してNYUの学生と教官の強いプロテストがあり、結果、D.S.氏はNYU医学校と合意の上でNYU教官候補を辞退した、というニュースを報じています。
「キャンセル カルチャー」によって、有名人や一般個人が、徹底的に社会的に抹殺される近年の風潮について、少し前に述べました。今回の件や、それから過去の関連した例、ソーク大のI.V.氏の事件やHarvard MedicalのP.P.氏などのセクハラ事件、などを思うと、これらのスキャンダルをフロントページで大きく報じて、キャンセル カルチャーを先頭を切って煽っているのは、こうした一流科学雑誌の編集部なのではないかと感じざるを得ません。
結局、雑誌は読者の欲する記事を載せようとします。ゴッシップ記事というのは科学の知見以上に人々の欲望を刺激することを雑誌社も当然よく知っているでしょう。しかも彼らには「科学の健全なる発展を支援する」という大義名分がありますから、過ちを犯した研究者を写真入りで名指しで糾弾することは、彼らの使命に一致する(少なくとも表向きは)とその行いを正当化できます。
記事はあくまで事実の記者の解釈ですから、100%公平な報道はあり得ません。そこに編集室や記者の意思、読者や関係者への忖度が反映されます。メディアは第四の権力と言われるように、そのパワーはしばしば破壊的であり、週刊誌や新聞が意図的に個人や集団にダメージを与えるために使われるというのはよくあることです。そして、一旦、有力メディアによってスティグマを押された研究者に与えられるダメージは深刻で、その回復はそのメディアでさえ極めて困難です。ゆえにメディアの記者は良心とともに細心の注意をもって、公平な立場で読者が判断できる形で記事を書く義務があり、その権力をもって、公衆の利益を口実に個人の人権を損なうことを意図してはならないと私は思います。
アメリカでは裁判になった時点で、提出された文書は公文書になり、誰でもその内容にアクセスすることができます。この事件に関してはD.S.氏が研究所と告発者に対して裁判を起こし、それに対して告発者が訴え返したために、コトの詳細は裁判文書として公開されています。告発者の訴状には、告発者の氏名、経歴から、告発者とD.S.氏がどのような会話をして、何回D.S.氏とどこで性交渉をもったとか、などのことがこと細かに記載されており、誰でも見れます。(このシステム自体どうかと思いますけど)そして、今回、この個人の極めてプライベートな情報が満載の裁判文書を、わざわざツイッターで拡散し、D.S.氏を糾弾した女性研究者の人がいました。
しかし、拡散された文書は、あくまで告発者の主張であって、D.S.氏の主張とは食い違っているわけですから、それが事実であるという証拠はどこにもないのです。はっきりしているのは、D.S.氏が指導教官と学生との恋愛関係を禁じた施設のポリシーに違反したということです。
そのツイッターで裁判文書を拡散した人は、「研究に携わる大勢の人がこれを読んで、D.S.氏が告発者の人にしたことを知ってもらいたい」と書いています。この人は、この告発者の訴状にある記述、つまり告発者から見た事件の解釈が疑う余地のない事実であると信じているようです。そうかも知れませんけど、そうでない可能性も十分にあります。その一方の言い分を無批判に拡散し裁判当事者の一方を糾弾するというのは、科学者の態度ではないと私は思いました。相手の言い分、第三者の言い分は無視ですから。
それから、この人は、こうした情報を拡散し非難をすることの長期的な影響を深く考えているようには思えません。人々は、セクハラポリシー違反という事実があるからこそ、水に落ちた犬を遠慮なく叩きます。叩いて、プライベートな情報の入った訴状を晒して拡散します。彼らの目指すところは、罪を犯した個人の社会的抹殺であり、科学雑誌の編集部がそれを煽っているのです。
問題を起こした有力者を、集団で叩きまくって抹殺して問題を解決しようとする態度は、私はまずいことだと思います。一種の集団ヒステリーですから。
こういう傾向が最終的にどのような影響を当事者のみならず、社会全体に及ぼすか、何となく想像がつきます。一つの過ちを犯した場合に、それに応じて粛々と罰を与えられて事件を決着させるのではなく、直接の関係者でない一般の人々にも情報が拡散されて、彼らが懲罰に参加し、個人が集団によって社会的に抹殺されるところまで行き着くなら、人々は萎縮し、お互いを敵と味方に分類して牽制しあうような世界になるでしょう。戦前の日本のような全体主義国家を思い出させます。結果、大学からは自由な発想や創造性は失われ、社会はお互いを監視し合う敵意にみちた場所になるのではないでしょうか。
法律違反、規律違反に反したものは、それに応じた罰を受け、罪を償うべきだと思いますけど、定められた以上の罰を与えられるべきではないと私は思います。過ちを犯さない人間はいないのですから。