ようやく三年がかりの論文を投稿しました。予想通り、第一志望の雑誌は編集室レベルでリジェクト。同紙の姉妹紙に再投稿(この間、週末をはさんで三日)。これがダメなら次の雑誌は悪名高いN出版グループの一つか、臨床医学系雑誌を得意とする雑誌社の一つにするかを考えています。ま、第一志望以外なら、どこに発表しても大差はないですが。この論文は、頼る人手がなく、データの解析、図の作成、原稿書きも、ほぼ全部自力でやったので、なかなか大変でした。だんだんと運動能力や記憶力などが知らず知らずのうちに衰えているのもあります。最近、コンピューター画面を長時間眺めるのが辛くなり、タイプミスが多くなったことに気がつきました。指の協調運動機能の低下に加え、左目の視力が衰えてきており、集中力と思考力と記憶力は多分、ピークの1割ずつぐらいは減小しているようなので、これらの複合作用はなかなかバカにできません。
その後、依頼されていた二つの論文のレビュー。こういう与えられた仕事をこなすタイプのはまだまだ大丈夫です。経験とかで補えますので。
これらは、二つとも、某国からの投稿で、一つはリバイス。ちょっと分野を外れた雑誌でしたが、そこそこのインパクトファクターの雑誌からで、私が初稿をレビューして、出来が悪いのでリジェクトの判定をしたものであることが判明。どうもエディターが私の意見を覆してリバイスにしたようです。原稿の採否の判断は、雑誌のレベルを考えて、その論文がリバイス後にそのレベルに達するかどうかを想像して決めることが多いと思います。この論文には問題点が多すぎて、その理由を挙げて、リジェクトが妥当であると判断したものですが、その判断をエディターが正当な理由なく覆すということは、エディターが私の時間と労力を何とも思っていないということです。当然、そういう誠意のない編集室に二度も時間を割く理由もないので、依頼はサックリと拒否、雑誌はブラックリスト入り。ま、そもそもバカにされて雑誌社の金儲けに利用される私が悪いのですが。
もう一つは、とある学会の機関紙で、その専門分野ではNo2の雑誌。この国からの投稿原稿の九割以上でよくあることですけど、実験方法の記載がなっておらず、結論に沿ったデータを並べただけの評価不能の論文。こういうのは読んで内容を理解することさえ非常に苦労します。それでもなんとか解読して問題点を書き出して、コメントをしようとしたのですけど、論文からとにかく怪しさが漂ってくるのです。それで、ふと、バンドがいっぱいのウエスタンのデータの高画質画像をダウンロードし、二つの別の図で比べたら、明らかに古典的な手口のバンド画像の使い回し。バンドを小さな単位に切り刻んで、それを縮尺を変えたり反転させたりして組み合わせて合成し、画像処理をしてあたかも一枚のゲルのようにしてあります。わざわざ縮尺やコントラストを変えて反転させたり順序を変えたりした上で作ってますから、うっかりミスという言い訳はできません。それにしても、同じ論文の二つの図で使い回しますかね?わざとバレるようにやったのか、それとも単に知恵が足りないだけなのか。いずれにしても、明らかに犯意をもってやったことで、おかげで心置きなく最低評価でリジェクトを押すことができました。
ま、こういうことがあるので、他人のデータは話半分で聞く癖がつきましたし、そもそもこの国からの論文は最初から疑ってかかりますけど、それでも、科学出版というのは、著者がウソをついていないという前提で審査されるものなので、一応、読みにくい原稿に時間を費やして、不整合をチェックしてコメントを書いた後に、実際にこういうことを発見すると地味に怒りが湧いてきますね。
コミュニティーに多少でも貢献するという気持ちで、こうした仕事を引き受けているつもりでしたが、その善意を踏み躙られるような経験をするのは、自分のやってきたことを否定されているような気にもなります(ま、もうそういうことが、多すぎて慣れましたど)。
人間社会ですから、お互いがお互いを利用しあって生きているわけですけど、それでもそこに、誠意は不可欠でしょう。誠意は筋を通すとか建前を重んじるという形になって表れますが、最近は、筋とか建前を軽んじる傾向が強くなったと感じます。人々が人間としての成熟を軽んじ、刹那主義的になり動物化してきた結果なのでしょうか。
腐っていない部分がない業界などそもそもないですけど、私には腐っているものをつまんで捨てたりするだけの気力も体力ももうありません。この世に居場所がなくなっていっても、今後も臭いものにはなるべく近寄らない、危ないところには行かない、嫌なことからは素早く逃げる、というポリシーでやっていくつもりです。