百醜千拙草

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余剰動物と刑事告発

2022-05-20 | Weblog
以前、動物実験に関しての主にヨーロッパ諸国の対応について述べました。ヨーロッパ諸国ではanimal rightsに関する関心は高まる一方で、動物実験施設を閉鎖する研究施設もでてきました。確か、今年もスイスではこれまでも数回行われて僅差で否決されてきた動物実験全面禁止案の国民投票が行われる予定です。
最近のScienceのフロントページで、今度はドイツでの興味深い動きが報じられていましたので下にその一部を。

、、、、多くの国で、動物愛護団体は何千、何百万という動物が医学実験に使われていることを非難している。ドイツでは、活動家たちは新たな問題を取り上げていいる。研究の基準を満たさないか、研究系統の繁殖の過程で生まれたために、実験に使われることなく処分される多くの動物に注目したのだ。
 ドイツのヘッセン州の検察当局が、地元の大学やその他の機関によるこうした「余剰」研究用動物の殺処分が犯罪に当たるかどうかを調査していることが、サイエンスの取材で明らかになった。この殺処分は、合理的な理由なく動物を傷つけることを禁じた同国の厳しい動物保護法に違反するとして、2021年6月にドイツの動物保護団体2団体が検察当局に複数の訴えを起こしたことから、捜査が開始されることになった。、、、

ドイツの動物保護法は、EUの動物研究規制とともに、脊椎動物を正当な理由なく殺した者に罰金または最長3年の懲役を科すものである。、、、
2年前、EUの研究機関が940万匹の動物を実験に使用した2017年、約83%がマウス、7%がゼブラフィッシュの実験飼育動物で、それらの研究が行われないまま1260万匹が殺処分されたとEUは推定している。その過剰な研究動物の約3分の1がドイツで飼育され、殺されていたと、連邦食料農業省は推測している。
ドイツの過剰な研究動物をめぐる議論は、2019年に高等裁判所が「脊椎動物を経済的理由だけで殺すことはできない」という判決を下したことで盛り上がった。この事件は研究動物ではなく、世界では鶏しか評価しない卵生産施設で日常的に殺処分されている雄のヒヨコが対象だった。、、、

動物保護法に基づく10年前のドイツの判決では、「適切な動物飼育施設が確保されている場合に限り」動物園での繁殖を許可されるとしている。他の動物にも同じ原則が適用されるべきであると彼女は言う。研究機関は、少なくとも余った動物が自然に死ぬまで飼育するべきだが、そうするとすぐに現在の収容能力を超えてしまう。、、、

いくつかの研究機関からは進展が報告されている。ゲーテ大学フランクフルトによると、2017年以降、研究に使われない実験動物の数はほぼ30%減少したという。サイエンスが接触した他のドイツの機関も、同様にその数を減らそうとしていると強調している。

他の国では動物保護規制がそれほど厳しくなく、透明性も低いことが多いため、動物愛護団体の戦術がドイツを超えるかどうかは不明だ。米国では、研究に使われる動物の数さえも把握されておらず、年間1千万匹から1億匹以上と推定されている。その結果、米国の研究所は「社内の倫理委員会以外に数を正当化する(あるいは数える)必要もなく、過剰な動物を殺すことができる」と、ハーバード・ロースクール動物法・政策プログラムの客員研究員である獣医のラリー・カーボーン氏は言う。、、、

人々は、この刑事告訴がドイツの動物研究の将来にとって何を意味するのかを考えている。彼らはドイツの政治家たちに、動物保護規則を明確にし、いつ、どのような淘汰が許されるかを知るよう求めている。「しかし、最終的には良い議論になるだろう。

というわけで、動物を使った実験はますます制限されていきそうです。同じマウスでも、研究のために使われるマウスの命は尊重されるのに、一般家庭で出る害獣としてのマウスの命は誰も気にしません。鶏卵生産のために間引かれるオスの鶏の命にはこだわるのに、鶏肉採取のために鶏を殺すのは問題ありません。一種のダブルスタンダードですが、上にもあるようにこういう議論をすることは意味のあることだと私も思います。

人間は生きるために他の動植物を利用せざるを得ないわけで、動物実験の制限や食肉習慣の制限は、突き詰めれば、あくまで人間が人間自身の(満足の)ためにやっていることだというのは私は同意します。動植物を殺すことは人が生きていく上で必須ですからゼロにはできません。殺生は罪だと教えられるのに、殺生なしに生きてはいけないのが人間ですから、ダブルスタンダードとか偽善であるとか批判して切り捨てて終わりにするのではなく、万人が納得できる結論は得られなくとも、議論を続けていくことそのものに意義があると私は思います。

このヨーロッパ諸国の動きは遠からず、いずれ世界的に広がっていくと思います。こういう運動が広がると、動物実験が自由に行えなくなり、食肉が制限され、その生産価格は上昇します。本来の目的を達成するためには全てマイナス方向に動き、こうした仕事を生業とする人には死活問題となります。しかるに、失われるものがあれば得られるものがあるわけで、ゆえにこの活動が大勢の人々から支援されているのだと思います。経済効率、便利さと物質的豊かさを追求して、人間は動物や人間(奴隷)やその他の自然資源を一方的に利用してきました。それらへの反省の上に人間社会は成熟してきました。動物を人間のために利用することに対する継続的な反省は、動物よりも人間自身の成熟のために必要なのだろうと思います。

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