百醜千拙草

何とかやっています

究極の幸福

2007-06-10 | 文学
2日前に、半年前に応募した研究費申請が通らなかったことを知りました。8割以上が落とされるので、まず予想の範囲ではあるのですが、やはりちょっとがっかりしました。最近はこういったことに耐性が着いてきているので、落ち込みも一日以上持続することはありませんが、いつまでたっても落ち込んだり、まれに喜んだりを繰り返しているなあと思ったときに、昔読んだ詩の一節を思い出しました。

山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人のいう。
ああ、われひとと尋(ト)めゆきて
涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く
「幸い」住むと人のいう。

この有名なカールブッセの詩は、私も上田敏の海潮音を読んで知りました。確かこの詩が一番最初にあったような気がします。読んだのは中学生ころだったような気がしますが、子供心にも幸福とは虹のようなものなのだなあと共感した覚えがあります。今になってみれば、この詩の何が良かったのかピンときません。
以前にも取り上げた蘇東坡の詩、

慮山は烟雨  浙江は潮
未だ到らざれば 千般恨み消せず
到り得帰り来って 別事なし
盧山は烟雨 浙江は潮

に比べてみれば、深みが足りないように思うのです。これらの詩はよく似た構造をもっていますが、前者では、幻の「究極の幸福」を求めたが見つけられなかったので悲しい、という内容なのに対し、後者では「究極の幸福」の正体について述べられています。「別事なし」というのは、「悟りの前は山は山、川は川であったが、悟ってみると山は山ではなく、川は川ではなかった。しかしもう一段上ってみると、山はやはり山であり、川は川であった」ということと同意なのだろうと思います。達磨大師の「無心論」、盤珪禅師の「不生禅」に代表されるように、仏教は昔から、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色、、、」と分別の起こる前を会得すること、幸福と不幸が分かれ起こる前を見よと教えています。そこに気がついて「別事なし」の心でいられることが究極の幸福なのでしょう。(研究費申請、通るもよし、通らざるもよし、、、ということで)

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