なかなかうまく行きません。うまく行かないのが研究の普段の姿ですから、うまく行かないのは研究が普通に進んでいると解釈すべきなのでしょう。そうわかっていても論文は出さないといけないので、あせりをどうしても感じてしまいます。周囲のことは気にせず、目前のことに集中し一生懸命やるしかないのです。それでも毎日のように小さな期待や希望が潰されて落ち込んでしまうような時、思い出す句があります。鈴木大拙の本のどこかにあって気に入ったのですが、いったい誰がオリジナルなのかは知りません。
剣を長空に揮ふてその及ぶと及ざるを問わず
大拙の本には確かこう書いてあったように思ったのですが、今インターネットで調べてみると、出典は祖堂集十五巻の中にあるようで、そこには、
禅徳、譬えば剣を擲て空に揮うが如く、及ぶと及ばざるとを論ずる莫し。斯れ乃ち空輪の跡無く、釼刃の虧(か)くるに非ず。
とありました。前後をちょっと読んでみると、馬祖の弟子であった盤山と言う人の言葉のようです。最初に大拙の本で知ったときに前後の句が欠けていたので意味を多少勘違いしていたようで、これが原本であるとすると「禅徳あるいは道というものに実体があると思ってはいけない」というような意味であったのだろうと思います。しかし、大拙版のようにこの部分だけを取り出してもっと俗流に解釈した方が、原本の意味以上に味わいがあるような気がします。例え話ではなく実際に剣を揮ってみようという元気がでてきます。揮うことそのものに真実があり、結果のみによって剣が評価されるべきではないというように解釈できます。まあ自分に対する慰めですね。
剣を長空に揮ふてその及ぶと及ざるを問わず
大拙の本には確かこう書いてあったように思ったのですが、今インターネットで調べてみると、出典は祖堂集十五巻の中にあるようで、そこには、
禅徳、譬えば剣を擲て空に揮うが如く、及ぶと及ばざるとを論ずる莫し。斯れ乃ち空輪の跡無く、釼刃の虧(か)くるに非ず。
とありました。前後をちょっと読んでみると、馬祖の弟子であった盤山と言う人の言葉のようです。最初に大拙の本で知ったときに前後の句が欠けていたので意味を多少勘違いしていたようで、これが原本であるとすると「禅徳あるいは道というものに実体があると思ってはいけない」というような意味であったのだろうと思います。しかし、大拙版のようにこの部分だけを取り出してもっと俗流に解釈した方が、原本の意味以上に味わいがあるような気がします。例え話ではなく実際に剣を揮ってみようという元気がでてきます。揮うことそのものに真実があり、結果のみによって剣が評価されるべきではないというように解釈できます。まあ自分に対する慰めですね。
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