百醜千拙草

何とかやっています

形式

2023-05-16 | Weblog
週末は法事でした。この一年に複数の身内が相次いで亡くなり、通夜、葬儀、四十九日、初盆、一周忌とこの一年以内に何度もほぼ同じメンバーで会食することになりました。残された人々が故人を偲び、思い出を分かちあう機会として、法事というのは悪くない制度だと思います。しかし、単なる儀式となってしまった日本ならではの葬式仏教そのものは仏教の実践とは無縁のもので、そこには違和感を感じずにはおれません。

お坊さんがほとんど意味不明のお経を唱えるのを聞いていると、いかに目を開けたまま眠ることができるか、という神経生理学上の難題に無意識に意識が集中されるのが意識されるという一種のトランス状態に入っている自分を客観的に観察している自分という存在が意識されるのでした。これはいわゆるヴィパサナー瞑想に近いのではないかと思いつつ、南無阿弥陀仏を聞きながら壇場の飾り物や蝋燭の火を見て見ました。

法事の後、午後の用事を済ませてから、義理の兄と居酒屋で晩飯。居酒屋のあとは、その近所の飲み屋に二十年ぶりに立ち寄りました。カウンターが10席ほどの狭い店で、バーテンのマスターは無口、まっすぐ家に帰りたくない中年親父が一人で立ち寄って、黙ってウイスキーをショットで飲んで帰っていくというタイプの店で、昨日は他に客もいたのに二人でダラダラと喋ってしまい雰囲気をぶち壊したので、酔いが醒めてからちょっと後悔したのでした。話題はいつもの話。今後、子育てが終わり中年が過ぎ老年期になったらどう人生を過ごすかという哲学的かつ現実的難題。

この店は、カウンターに置かれた樽に入っている特別にブレンドしたウイスキーが名物ですけど、数十年を経ても同じ位置に同じ樽がありました。ついでにその横にあったダイヤル式の黒電話も昔のまま健在でした。多分50年以上前に製造されたものでしょうがちゃんと機能します。

そのまろやかなウイスキーを完全に透明な氷と一緒にロックで一杯。昔は松の実がつまみでしたが、今回はナッツとカマンベール風のソフトチーズ。二杯目はマティーニ。三杯目は、目の前にラムのボトルがあったので、ラムベースのカクテルをと注文したらキュラソーとレモンジュースで作るXYZというのが定番ということで、それ。無駄のない動きで作って注いでくれるマティーニをこちらも帽子とスーツが似合う渋い中年男性になったつもりで啜ります。この瞬間、ホストと客の間に無言のコミュニケーションが行われるわけですが、それは「形式」に依存しているということがふと実感されたのでした。バーでマティーニを飲むということは、一連の形式を踏まえた儀式であり、ゆえに人は自宅の台所でコップにジンを注いで呷るかわりにわざわざバーに足を運ぶのでしょう。

すなわち、ショートグラスは液体を入れる部分だけをあらかじめ氷水で十分に冷やされる必要があり、それは冷蔵庫に入れておいたグラスを取り出して使うというのではダメなのです。マティーニはステアで正確に合わせたものを客の目の前で注がれる必要があり、ステアグラスの中の全量の液体を注ぎ切った時に水面がグラスの縁から5ミリ以内に収まらなければなりません。グラスに入れられるものは適度に塩抜きしたオリーブでなければならず、最後に控えめな「の」の字の腕の運動でオレンジ皮かレモン皮からの雫の霧が客の目の前でグラスの上に回しかけられなければなりません。

これは、茶席の茶と同じですし、法事でお坊さんが鐘を鳴らし香を焚いてお経を唱え、出席者が焼香するのと相似であります。重要なのは形式であり、それが人間同士の関係の安定性を確保しているのだとあらためて感じたのでした。お坊さんが袈裟を着て剃髪するのも、医者が白衣に聴診器をぶら下げるのも、実験をしなくなっても研究者がピペットマンを握って写真を撮りたがるのも、そういうことなのでしょう。
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