tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中修司さん 人生あおによし(朝日新聞奈良版連載・総集編)

2012年05月10日 | 奈良にこだわる
私の祖母(父の母)が五條市新町出身というご縁で、田中修司(たなか・しゅうじ)さんとは懇意にしていただいている。田中さんは《1930年、五條市生まれ。「柿の葉すし」を商品化し、全国に販路を広げた。市立五條文化博物館や藤岡家住宅を管理するNPO法人「うちのの館」理事長として、まちづくりや文化活動にも取り組む。2007年に旭日双光章を受章。10年、五條市名誉市民に選ばれた。同年、県民に元気や感動を与えた人をたたえる「第1回あしたのなら表彰」を受ける。同市在住》(「人生あおによし」その1)という立派な方である。

その田中さんが朝日新聞奈良版の名物コーナー「人生あおによし」に、27回にわたり健筆を揮(ふる)われた(2012.3.25~4.21)。これは実業家としての田中さんの成功譚であるにとどまらず、大和の郷土食「柿の葉すし」普及の歴史であり、県下有数のフィランソロピスト(社会貢献活動家)の半生記でもある。私は毎回、興味深く拝読した。しかしネットには出ていないので、朝日新聞(奈良版)を購読している県民以外には、あまり知られていないのが残念だ。

そこで今回、全27回をダイジェストして紹介させていただく。これは総集編&永久保存版(のつもり)である。切り抜きのうち欠けていた部分は、同僚のSくんに補ってもらった(Sくん、どうも有難う)。文中、青字の部分と《 》で囲った部分は、同紙からの引用である。

画像は、柿の葉すし本舗たなかの公式ホームページより

1.吉野川筋の食 後世へ(その1)
紀伊半島の玄関口で、五つの街道と吉野川の水運が交わる五條は、人、もの、情報が集まる要衝として栄えました。吉野や熊野、高野にも近く、京奈和自動車道のインターチェンジが市内に三つもできて交通の便が良くなり、自然を満喫してもらう格好の場所となっています。天平時代の姿をそのまま伝える国宝の栄山寺八角円堂や、後醍醐天皇の南北朝の哀史「賀名生(あのう)の里」、幕末の尊皇攘夷運動の魁(さきがけ)とされる「天誅組(てんちゅうぐみ)の変」など、世の中の変わり目に関わってきた奥深い歴史もあります。

ほんの小さな飲食店を全国に展開する企業に育ててくれた皆さんへの感謝の気持ちから、一線を退いた今は登録文化財「藤岡家住宅」を管理するうちのの館理事長として、また、天誅組にまつわる史実を発掘・検証する「『維新の魁・天誅組』保存伝承・顕彰推進協議会」会長として、五條の歴史と文化を伝える活動をしています。また、古い商家や造り酒屋が残る「五條新町」の町並み保存運動は、一昨年の全国88番目の国の重要伝統的建造物群保存地区に結びつきました。

「たなか」は昨年10月、近鉄奈良駅近くの東向商店街に念願の「なら本店」をオープンしました。今でこそ県内外に直営30店舗、取り扱い20店舗となりましたが、専門店化を目指した当初は「家で作れるものが商売になるのか」といぶかられていました。もともと、柿の葉すしは7月24日の夏祭りに食べるものでした。

熊野灘でとれたサバは塩漬けにされ、川舟に積み込まれ、紀の川をさかのぼって吉野川筋の村々まで運ばれてきました(紀の川は、五條に入ると吉野川と名を変えます)。塩辛いサバを薄い切り身にして握り飯の上に載せ、庭の柿の葉で包み、木桶に詰めます。ふたの上に重石(おもし)を載せ、一晩寝かせると塩辛さが抜け、柿の葉の香りがご飯になじんでまろやかな味に熟成するのです。元来、夏の時期の家庭料理ですから、年間を通じた販売のためには葉を緑色のまま保存できなければなりません。これが最初の試練でした。

田中さんは1930年(昭和5年)のお生まれ。少年時代は吉野川が遊び場だった。士官を夢見る軍国少年として、43年(昭和18年)旧制五條中学に入るが、45年8月に敗戦。《負けたことへの挫折感もありましたが、「今日から民主主義だ」と教官が掌(たなごころ)を返したように前の日までと違うことを言うようになったのがショックでした》(その3)。


柿の葉すし本舗たなか「奈良本店」。5/8撮影

2.「損を取れ」亡父の教え(その4)
敗戦翌年の7月、夏休みの最初の日でした。父が心筋梗塞(こうそく)で急死してしまったのです。47歳でした。前の晩は、父の肩をもみながら将来の話などをしていたのではないかと思います。病気などしたことのない父でしたから、突然のことにぼうぜんとしました。15歳の私と姉妹3人が残されました。祖父も父も、もともとは大工の棟梁(とうりょう)でした。祖母や母は、国鉄五条駅前でうどん屋を営んでいました。父は、とにかく相手の立場を考える優しい人でした。

これは、特に母から言われたことですが、子どもの頃は常々「人に得を取らせて、自分は損を取れ」と教えられました。掃除の時は、ほうきを持って楽する者が一番あかん。競争でも、人を先に行かせて後から追いかけなさい。追いつこうとする馬力が、追い抜く力に変わるのだから―。今でも信条になっています。学制が中学から新制高校に変わるちょうど端境期に、五條中を卒業しました。役場近くの料亭「明月」の板場での修業を経て、家業のうどん屋を継ぎました。



画像は、同社の公式ホームページより

3.葉の緑色保存 試行錯誤(その5)
店では、夏の間だけ柿の葉すしを出していました。柿の葉すしは、五條の夏祭りのごちそうです。

かつてはどの家でも作りましたが、手間がかかるため、次第に作る家が減ってきた頃でした。「このままでは、伝統ある柿の葉すしがなくなってしまう。ぜひとも残していかなあかん」と、期間限定ではなく、年間を通じたごちそうにしようと決意しました。柿の葉は5月下旬ごろに若葉が出て、次第に養分がつき、分厚く色も濃くなります。秋になれば赤く色づき、やがて散ってしまいます。夏の一時期の鮮やかな緑色をどう保存するかが問題でした。

高菜を使っためはりずしのように、色を保つには塩漬けがいいだろうと塩に漬けてみましたが、漬けもののようにくすんだ色に変わってしまいます。うどん屋の仕事の合間を縫って、山へ行っては柿の葉を採り、実験を繰り返しました。試行錯誤を重ねるうちに、ポイントがつかめてきました。1つは塩に漬ける時期、もう1つは温度管理。今でも「どうしてこんなにきれいな色が保てるのですか」と不思議がられます。詳しいことは企業秘密です。



4.手土産にとの願い、苦戦(その6)
柿の葉も、何でもよいというわけではありません。最初はどんな柿の葉が良いか分かりませんでしたが、山へ通ううちに「法蓮坊」という品種の葉っぱが、一番包みやすいと分かりました。法蓮坊というのは、卵形の渋柿で、柿渋をとったり、熟れたものは干し柿にしたりする品種です。「色は黒ても味みておくれ 味は大和のつるし柿」という宣伝文句がありました。法蓮坊は五條の山にあった品種で、そんなに数は多くありませんでした。

柿の葉すしを大量生産するようになった今は、平種なし柿の葉を使っています。これも渋柿ですが、葉が柔らかいです。葉を採ってくれるのは、柿農家のおじいちゃんやおばあちゃん、子どもたちでした。特に、夏休みは子どもたちが手伝い、虫に食われたのを除き、大きさや向きをそろえて50枚ずつの束にしてくれました。それを地域でひとまとめにして出荷してもらいました。葉の保存方法を見つけ出し、柿の葉すしを一年中作れるようになりました。家で作らない時期に食べてほしい気持ちもありましたが、菓子折りのようによその家を訪問する時の手土産にしてほしい、という願いがありました。しかし、年間を通して作れるようにはなったものの、思うように売れません。家で作れるものを、わざわざお金を出して食べることに抵抗があったようです。


柿の葉すしはなかなか売れず、毎日夕方になると、五條の役場の記者クラブに売れ残りを持っていって配っていた。そのうち新町地区の人たちがお土産に使ってくれるようになった。昭和30年代になると《自然や健康、ふるさと志向が高まり、追い風になりました。五條の記者さんらが新聞で取り上げてくれたこともあり、百貨店や公民館から柿の葉すしの手作り講習会の要望も寄せられるようになりました。そうして柿の葉すしが五條のお土産として、県外の人たちにも認知されるようになったのです》(その7)。

1967年(昭和42年)には吉野川畔に「レストランよしの川」がオープン(その9)、73年(昭和48年)には株式会社化(その10)。79年には、来県された昭和天皇・皇后両陛下に柿の葉すしを献上。《侍従長を通して「おいしかった」というお言葉をいただき、深く感激するとともに、大きな自信になりました》(同)。


ある日のランチ。「五条楽」(6個 600円)と柿の葉すし(3個 360円)

5.清潔な店、ケーキ屋手本(その11)
両陛下からのお言葉にも背中を押され、「もっと多くの方に召し上がってほしい」と県外に進出しました。行幸の翌年には、大阪・難波の高島屋と東京・日本橋の三越本店に出店。並行して、県内での販売店づくりも進めました。店づくりで一番心がけたのは、トイレが美しい店にしようということでした。

様々な業種の店を観察し、ケーキ屋さんが一つの目指すべき姿だと思い至りました。明るい店内の清潔なショーケースに商品を並べ、ケーキを選ぶように柿の葉すしを選んでもらえたら――。そうして1984(昭和59)年、五條市中心部の国道24号沿いに、バスも止められる新しい本店ができました。

奈良のお土産として定着すると、「遠くに送りたい」との要望が寄せられるようになりました。まとめ買いをして郵便局から自分で送っている、という方もいました。発送を始めるのにあたり、問題は真夏の暑さでした。


昭和50年代に入ると、ヤマト運輸が宅配便を手がけるようになったが、クール便はまだない。真夏には50℃近くなる車内でも質を維持できる梱包はできないか、研究を開始した(その12)。


別の日のランチ。「味景色」1,000円

6.「届いたら食べ頃」実現(その13)
柿の葉すしの品質を保つ梱包づくりのため、1ヵ月近くにわたり、毎日のように奈良市の発泡スチロールの会社に通いました。箱に商品と保冷剤を入れ、恒温庫に入れておき、品質の変化や保冷剤の効き目を調べるのです。

木桶の形に合った発泡スチロールの箱も特注し、やっと、遠くの町の方からの注文にもお応えできるようになりました。広告は、こんな文句にしました。「届いた頃が食べ頃です」


田中さんはアイデアマンである。《伝統的に柿の葉すしに使う魚はサバですが、その後、サケとタイを加えました。(中略) からしマヨネーズとハムで巻いたすしを作ってみたところ、これがなかなか好評でした》(その13)。これに気を良くした田中さんは、梅肉と青ジソ、奈良漬けと海苔、山菜ご飯と薄焼きの卵焼き、貝のしぐれ煮とおぼろ昆布など、6種類のオリジナルの寿司を作ってセロハンで包み、「五条楽」として売り出した(その14)。しかし百貨店への出店や新店のオープンが続くと、腱鞘炎(けんしょうえん)になる従業員も出てきた(同)。


味景色の中身

7.職人技の機械化に挑む(その15)
柿の葉すしを作る時には、ご飯を手のひらに載せ、四角く握ります。この時、無意識に奥歯をかみしめているので、半日、一日と続けると、歯がガタガタになります。人の手だと、1個作るのに十数秒かかります。1分で5個、1時間に300個作り続けると、指がだんだん動かなくなってきます。製造物責任法(PL法、1995年に施行)の議論も始まり、人の勘や手作業に頼っていては、食の安全を十分に守りきれないかもしれない、との懸念もありました。そこで私は、人の手と同じように柿の葉ですしを包める機械の開発にとりかかりました。五条楽をセロハンでラッピングする機械があったので、応用はそう難しくはないだろう、と思ったのです。

ちょうど、県が南和の定住策として、御所市との市境近くに新たな工業団地「テクノパーク・なら」を建設していました。92年、「たなか」本社と工場部門をテクノパークに移し、ファクトリー・オートメーション(生産ラインの自動化)に踏み切ったのです。当時の売り上げと同じ規模の、相当思い切った投資でした。 ところが、職人の手技を機械で実現するのは、容易ではありませんでした。セロハンのような規格品と違い、柿の葉は一枚一枚、大きさも、形も、厚みも違います。包めたと思っても、機械から出すとまた広がってしまうなど、想定外の結果が続きました。


8.阪神大震災、総出の支援(その16)
柿の葉も、すしの米も、魚も、すべて自然のものです。経験豊かな職人たちは、その時々の材料や炊きあがりの状態を見ながら、微妙な加減をしてきました。今ではすし飯の大きさなど細部までコンピューターで制御していますが、職人の勘を機械に置き換えるのは本当に難しいことでした。

1992年、晴れてテクノパークに新工場が動き出しました。当初、稼働率は期待したほどではありませんでしたが、次第に落ち着き、新設した見学者通路には工場見学のお客さんも見えるようになりました。それから2年あまり経った95年1月17日。阪神大震災が起きました。翌日、兵庫県芦屋市の北村春江市長(当時)から「ご飯ものを支援してほしい」との要請が五條市長のもとに届きました。被災者はパンやカップ麺でしのいでいるといいます。柿の葉すし1万5千食と、ちらしずし3千食を送ることになりました。五條市長からの連絡は終業後でしたので、急いで社員を呼び戻しました。帰宅した者も、年末年始の繁忙期を終えて休暇に入った者も、全員が駆けつけてくれました。

9.避難所で生きた保存食(その17)
柿の葉すしを入れる紙箱は、毎日、近くの福祉作業所のメンバーに折ってもらっていました。急に1万5千食分の箱を用意するのは子どもたちだけでは追いつかないと、親御さんも一緒に箱を折ってくれました。柿の葉すし作りは夜を徹して続き、「救援物資」の横断幕をかけたトラックを見送ったのは、1月19日未明のことでした。

柿の葉に包まれているため、お箸や皿がない避難所でも食べやすく、ネタも同じなので気兼ねなく食べることができて重宝されたと、後で聞きました。吉野の先人の知恵がこんな形で生かされ、被災直後の皆さんのお役に立てたことがうれしかったです。後日、たくさんのお礼状が寄せられ、神戸に出店するご縁にもなりました。機械化する前では、これだけ迅速には対応できなかっただろうと考えると、工場移転時の苦労も報われるようでした。



画像は、同社の公式ホームページより

10.第二の人生、天誅組顕彰(その18)
10年前、娘に会社を任せ、社長を退きました。一本の道を妥協せずに歩む性格の娘は、はじめから柿の葉すしの商売をしたいと言っていました。社外の仕事が増えてきた私に代わり、専務として実務を担ってくれていました。

五條の伝統の柿の葉すしと、市内最高の場所で商売をさせていただいた恩返しをと、「第二の人生」は地域おこしに力を注いでいます。その一つが、天誅組(てんちゅうぐみ)を研究・顕彰する活動です。天誅組は、公卿中山忠光を首領とする尊王攘夷(じょうい)派志士の一団で、1863(文久3)年8月、幕府の天領だった五條の代官所を襲撃しました。

大塔の天辻に本陣を移し、十津川郷士からも兵を募って高取城攻撃を試みますが、失敗に終わり、東吉野村の鷲家口で壊滅しました。天誅組の決起は失敗に終わりましたが、これが大きな刺激となって、西国雄藩の下級武士や京都の公家らが指導力を発揮し、5年後の明治維新へとつながりました。 


田中さんは、天誅組が活躍した時代は、現代の世相と共通する部分があるという。《東日本大震災と原発事故、混迷する国際関係。日本の政治、経済、社会が将来を見通せない閉塞感の中、大いなる行財政改革を待ち望む声とともに「平成維新」が叫ばれています。「一心公平無私」の理念のもと、国のために立ち上がった若き志士たちをたたえ、地元で起きた重大な史実を語り継ぎたい――。こんな時代だからこそ、天誅組の功績を見つめ直す意義があると思うのです》(その19)。 

藤岡家住宅(うちのの館)の公式ホームページより

11.広がる天誅組活動の縁(その21)
「藤岡家住宅」との出あいも、天誅組の活動が縁でした。天誅組の「三総裁」と言われた一人、松本奎堂(けいどう)の直筆の額が藤岡家にあると聞き、協議会のメンバーで見に行くことにしたのです。2004年のことでした。 藤岡家は、五條と大阪との境をなす金剛山麓(さんろく)に残る旧家です。江戸時代からの庄屋屋敷で、両替商、薬種商、質屋、染物屋などを幅広く営んでいたようです。この家は、佐賀、和歌山、熊本3県の官選知事を務めた藤岡長和氏(1888~1966)の生家でもあります。

長和氏は旧制五條中学から旧制三高、東大へ進み、この頃から「明星」の影響を受けて俳句や短歌に才能を発揮しました。退官後は、高浜虚子主宰の「ホトトギス」同人となり、玉骨(ぎょっこつ)の俳号で俳人として活躍しました。与謝野晶子・鉄幹夫妻をはじめ石川啄木、森鴎外らとも交友があったことが藤岡家に残る資料から伺えます。長和氏の妻うた代さんも婦人運動家の市川房枝と親交があり、有名な方でしたが、うた代さんが1978年に亡くなってから30年近く、藤岡家は空き家となっていました。

藤岡家を訪れてみると、結局、額は松本奎堂(けいどう)の筆ではなく、長和氏が熊本県知事の時代に時の総理大臣清浦奎吾(けいご)から贈られたものと分かりました。藤岡家には、築215年の内蔵、築180年の母屋などがあります。人が住んでいない状態が続き、1998年の台風7号で屋根瓦の一部が飛ばされたのもそのまま、雨漏りや虫食いでひどく傷んでいました。しかし、建物には屋久杉など一級品の建材が惜しみなく使われ、あまりにも立派な造りをしていることにメンバー一同驚きました。そして「このまま朽ちさせてはもったいない。何とか保存せねば」との思いで一致したのです。

現当主の藤岡宇太郎氏は、長和(玉骨)氏の孫にあたり、茨城県に住んでいます。私たちが保存に向けて動きだそうとしていたころ、彼から私たちの仲間の山本陽一氏にメールが届きました。「自分が費用を負担して修復し、五條市に寄付したい」という内容でした。山本氏は五條の造り酒屋の当主で、街並み保存などの運動に取り組んできたNPO法人「大和社中」の理事長です。町家を活用したイベントにも取り組み、毎年5月末、五條新町に手作りの品などを商う数百店舗が出店する「かげろう座」の仕掛け人でもあります。山本氏のインターネットでの情報発信が、宇太郎氏の目にとまったようです。ところが、市は慎重な姿勢でした。



画像は、同館の公式ホームページより

12.市民の力で管理・運営(その22)
「それならば、市民の力で藤岡家を守ろう」。2004年12月、藤岡家住宅を管理・運営するためのNPO法人「うちのの館(やかた)」を立ち上げました。「うちのの館」の名は、万葉集に「たまきはる宇智(うち)の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」と歌われた「宇智の大野」の地名から付けました。

この年に始めた工事は、すべて五條の職人さんにお願いしました。棟梁(とうりょう)の柴田正輝さんには「今から100年持たせてほしい」と注文。工事は2年8カ月に及びました。屋根瓦や梁(はり)、柱、壁などを丹念に直し、畳を替えて、雰囲気はそのままながら、見違えるように生まれ変わり、最高の修復ができたと喜んでいます。柴田さんは「大きなトラブルさえなければ、150年は大丈夫です」と自信を持って言ってくれています。この仕事で柴田さんは、卓越した技能をたたえる09年の県知事表彰を受けました。

修理と並行して、学芸員と市民ボランティア「家守倶楽部(やもりくらぶ)」のメンバーが、美術品や書簡、古い商売道具や生活用品といった膨大な資料の整理を始めてくれました。「藤岡家住宅」が開館したのは、08年11月のことでした。


画像は、公式ホームページより

13. 宝を守るボランティア(その23)
藤岡家は、ボランティアの方々の熱い思いがエネルギーです。中庭に200株の鉢植えの花ショウブを置いてくれた窪さん。フウラン(富貴蘭)を育て飾ってくれる井上さん。おひな様や五月人形の飾り付け、おひな様の前での琴の演奏、イベント時の会場設営や車の誘導、藤岡家の古い木材を使った木工製品作り……。60人がともに地域の宝を守ってくれているのです。

私は、藤岡家を近代日本の歴史文化の殿堂にすることを目指しています。建物や美術・文学資料の展示を見てもらうだけではなく、月ごとに、季節のお食事のランチサロンや俳句会、雅楽の演奏会、お茶会、華展、寄席などを開いています。「お越し頂くお客様には夢と楽しみを、お帰り頂くお客様には喜びと満足と感動を」の思いで、40~60分かけて館内をご案内しています。


14.弱者に寄り添った偉人(その24)
私が藤岡家を守っていく決心を固めたのは、2005年4月5日の熊本日日新聞の記事を読んだからです。記事によると、藤岡長和(俳号・玉骨)氏が熊本県知事だった1936~39年、うた代夫人と同県菊池郡合志(こうし)町(現・合志市)のハンセン病療養施設「国立療養所・菊池恵楓(けいふう)園」を訪れ、施設の人たちと句会を開いていたというのです。長和氏はまた、文芸を楽しむ会館「言志堂」を恵楓園に匿名で建てました。

長和氏がハンセン病患者に心を寄せていたことに感銘を受け、俳人の松岡ひでたか氏は著作「玉骨片影」に記しました。「当時のハンセン病患者に対する差別と偏見は、想像を絶するまでに凄(すさ)まじいものであった。そんな時代背景を考えると、玉骨の行為は、これまでの想像の範囲を遥(はる)かに凌(しの)ぐ愛情に溢(あふ)れたものではないか」。


画像は、市立五條文化博物館の公式ホームページより

「うちのの館」は2011年4月から、指定管理者として五條市立五條文化博物館(五條ばうむ)も管理している。《1995年にオープンしましたが、来館者の低迷や市の財政難で09年4月に休館となっていました。 せっかくのすばらしい施設を生かさないのはもったいないことです。休館が長引けば、施設そのものがだめになってしまいます。藤岡家住宅からは2キロほど、駅から約4キロの場所ですが、「市民の熱意と工夫次第で有効に活用できるはずだ」と考えました》(その25)。

《博物館を好きな子がいつでも来られるように、小中学生は無料にしました。吉野川の魚が見られる水族館もつくりました。市民ボランティアの手によるジオラマは、五條から和歌山県新宮市まで結ぶ計画だった「幻の五新鉄道」のループ式トンネルや、北宇智駅のスイッチバック、吉野川沿いの貯木場、野迫川村の鉱山から銅鉱石を運んだロープウエーなどがうまく再現され、鉄道好きの子どもたちが張り付くようにして見ています》(同)。

地域への貢献は、これらにとどまらない。《「五條新町」は、名前こそ新町ですが、400年の歴史があります。東西に1キロ、横に吉野川の船着き場と堤防があります。地区にある重要文化財の栗山家住宅には1607(慶長12)年の棟札が残され、建築年代の分かる国内最古の民家と言われます。2008年、国の重要伝統的建造物群保存地区選定を目指して町並みの保存会をつくり、一昨年12月に全国88番目の指定を受けました》(その26)。

また別の日のランチ 1,267円(柿の葉すし・さば、稲荷、紅トロ、アナゴ)

15.町を育てられる場所を(その27)
五條新町は、日本最初の民間の花火師を生んだ町でもあります。五條市大塔町出身の鍵屋弥兵衛は17世紀、この町で火薬の研究をして、文字どおり江戸で花を咲かせました。「かぎや~」の掛け声は、弥兵衛に由来します。昨年の台風12号で休止しましたが、2002年には吉野川でアユを生け捕りにする伝統漁法「やな漁」を30年ぶりに復活させました。

少々、自慢めいたことも書き連ねてきましたが、一つ心配なことがあります。それは、後に続く人の育成です。藤岡家住宅はオープンから4年目でようやく採算がとれるようになってきました。館内の喫茶「梅が枝」では既製品を一切使わず、なるべく地元の旬の野菜を使い、工夫を凝らした料理をお出ししています。私も力を入れているもので、好評を頂いています。藤岡家を訪れるお客様は「こんなにすばらしいものを、よくぞ残して下さった」と認めて下さいます。他人事ではなく、我がことと思って動いてくれる若い人が育てられたら、というのが、本当に大きな願いです。皆さんと話をさせてもらうのを健康のもとに、一人ひとりがふるさとへの愛情を持ち寄り、町を育てられる場所をこれからも作っていきたいと思います。


いかがだろう。ダイジェスト版とはいえ長くなってしまったが、田中さんのこれまでの活動をよくご理解いただけたと思う。これをお読みになったKさん(私の知人)からは、「冒頭のくだりは 涙で目が曇りました。途中からは鳥肌が立ちました。筆舌に尽くし難い、という言葉がありますがこれを超えています」というコメントをいただいた。私も同感である。

田中さんの心配事は、「後に続く人の育成です」とお書きである。実業家であり、料理人であり、奈良県の名士であり、アイデアマンで、地元の歴史にも文化にも造詣が深く、リーダーシップを発揮して地域おこしに取り組んでおられる田中さん。これを1人の後継者が引き受けることは困難だろうが、何人かがチームを組んで後に続くことは可能だ。いわば「チーム田中」である。

長屋門(「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会)、藤岡家住宅(うちのの館)や五條文化博物館をお訪ねするたび、熱心なスタッフやボランティアにお会いして、田中さんの精神が立派に引き継がれていることに感動している。

今年の「古事記1300年」、来年の「天誅組150年」と、いま五條市にはスポットが当たっている。「チーム田中」はこの勢いをうまく使い、ぜひかつての「人、もの、情報が集まる要衝」だった五條の賑わいを取り戻していただきたいと思う。ここまで粘り強くお付き合いいただいた当ブログ読者の皆さん、有難うございました!
コメント (2)
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