■ 数日前に南木佳士の『生きのびるからだ』文春文庫を再読した。33篇のエッセイが収録されているが、その中では「身の世話を受けた記憶」が心に残った。
著者は二歳半の時に母親を亡くす。その後母方の祖母に育てられる。著者はこのことを繰り返し書いている。
**母に死なれた幼児は、ただそこに在るだけの、飯を食い、泣き、大小便をたれる存在だった。(中略)祖母はそういう身の世話をしてくれた。田で稲を育てて米の飯を食わしてくれ、衣類のほころびを繕ってくれ、コタツでうたた寝をしていれば、毛布をかけて首のところをしっかり押さえておいてくれた。勉強しろとも、偉くなれとも言わずに、ひたすら在るだけの身の世話をしてくれた。**(66頁)
このくだりを読んで、数年前の秋に亡くなった母親のことを思い出した。母親は自分の人生のすべてを家族のために使った人だった。
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そして、今日(18日)『阿弥陀堂だより』を再読した(過去ログ)。
村の広報誌に「阿弥陀堂だより」というコラムを書いている若い娘さんと阿弥陀堂で出合った主人公の孝夫。娘さんに「こんにちは」とあいさつをするも返事がない。「この娘さんは口がきけねえでありますよ」と、おうめ婆さんが孝夫に伝える。
この場面を読んで、あ、そうだった、と思い出し、涙が出た。
体力も気力も衰えているが、どうやら感情を抑制する力も衰えているようで、ますます涙もろくなっている。
**祖母と山で働き、木を生活の糧としていた頃には覚えるはずのなかった疎外感。ふところの深い自然に囲まれていながら、それらと無縁であることの寂しさ。そして、すべてのものが枯れ、死に向かってゆくのだと認識せざるを得ない晩秋のもの哀しい寂寥。**(206頁)
こんなくだりを読んで、また涙・・・。
やはり南木佳士の作品は秋に読むのがよい。