689 カンガルーポケット付き火の見櫓
■ やはり坂道と火の見櫓の組み合わせは好い。このあたりは丘陵地で坂道が多いし、火の見櫓もあちこちに立っているからスケッチしたくなるような場所もあるに違いない。次回は春、桜が咲くころ、スケッチブックを持って出かけるか・・・。
この造形美!これは鉄のモダンアート。
設置してある銘板で昭和29年12月の建設だと分かった。
689 カンガルーポケット付き火の見櫓
■ やはり坂道と火の見櫓の組み合わせは好い。このあたりは丘陵地で坂道が多いし、火の見櫓もあちこちに立っているからスケッチしたくなるような場所もあるに違いない。次回は春、桜が咲くころ、スケッチブックを持って出かけるか・・・。
この造形美!これは鉄のモダンアート。
設置してある銘板で昭和29年12月の建設だと分かった。
688 上田市漆戸
■ 集落内の坂道と火の見櫓はなかなか魅力的な組み合わせ。
屋根の飾りが好い。 この火の見櫓も見張り台の床の開口からの落下を防ぐために手すりを付けている。屋根下中央に吊り下げた半鐘。木槌も吊り下げてある。
脚元は正面のみアーチ部材を使い、櫓内部に入ることができるようにしている。やはり東京タワーの脚が理想。
こういう脚が好い。
687 火の見櫓のある風景 上田市芳田にて 撮影日161022
■ このあたりは丘陵地、なだらかな斜面が広がり、集落が点在している。この丘陵地を通っている上信越自動車道を走行して集落に立つ火の見櫓にも気がついていた。
昨日上田市真田町に向かう途中、脇道に入って火の見櫓を撮った。
◎ しなの鉄道大屋駅に立っている火の見櫓(141)の脚元にカラーマンホール蓋があった。
子どもの頃、そうめんの中に色付きめんが入っているとうれしかった。白いそうめんの中にピンクのそうめんが1本、そのレア感がうれしかった。
カラーマンホール蓋と出合ったときのうれしさは、色付きめんが入っていたときと同じだと思う。
①
686 上田市下丸子
■ 国道152号から少し奥に入ったところにある下丸子公民館の敷地内に立っている。
②
大きく逓減しているな~、というのがこの火の見櫓の第一印象だった。①の全形写真では分かりにくいが、櫓の真正面から撮った②の写真だと逓減率が大きいことが分かりやすい。一般的な櫓より、脚を大きく開いている。伝えたいことを的確に捉えて撮ることを心掛けたい。その前に何を伝えたいのか明確にすることだ。
③
メンテナンスがきちんとされている火の見櫓は見ていて気持ちが良い。シャープな印象。
④
大きなアーチ材。アーチ材が脚元に達していることは好ましい。
685 旧丸子町の腰越公民館の敷地内に立っている火の見櫓 撮影日161022
櫓の絞り込みは直線的、このタイプは東信に多いようだ。
反りの強い方形の屋根。チョウの口吻のような蕨手。見張り台の上部の柱間を横架材で結び手すりにしている。床の開口からの落下防止策。消防団員は梯子を登ったら内部手すりの外側に立つことになる。
丸子町は2006年(平成18年)に上田市と合併したが、垂れ幕は丸子町消防団のまま。
◎ 中山道をなぞるように国道142号が通っている(軽井沢町と下諏訪町を結ぶ国道)。和田は中山道(木曽街道)の宿場だった。長和町和田(旧和田村)の農集排のマンホール蓋の絵柄には歌川広重の木曾海道(*1)和田が採用されている。
*1 街道を海道と表記している。
684 小県郡長和町和田
■ 東信地方でよく見られる姿・形の火の見櫓だが、シルバーではなく、こげ茶色に塗装されている。
脚元に雑草がはびこっている。もう使われてはいないのであろう。
683 下諏訪町樋橋 撮影日161022
■ 今日(22日)の櫓と蓋巡りの行き先は上田市真田町、坂城町、千曲市。
塩尻峠を超え、岡谷経由で長和町へ向かう途中でこの火の見櫓に出合った。場所は下諏訪町樋橋、国道142号沿い。時刻は7時45分過ぎ。辺りは濃霧で火の見櫓がはっきり見えない。
シャープな屋根のエッジ!
緩勾配の方形の横葺き屋根。
見張り台に半鐘無く、踊り場に半鐘有り。
■ 『阿弥陀堂だより』南木佳士/文春文庫に「方丈記」が出てくる。
役場の女性職員、小百合さんは村の広報に「阿弥陀堂だより」というコラムを書いている。その小百合さんが病気で入院した。死ぬかもしれないと思った彼女(一時はかなり重篤な状態になった)は聴いておきたいものとして、モーツァルト、『方丈記』、『歎異抄』が浮かび、病室でこれらのカセットテープを聴いていた。
私も『方丈記』を久しぶりに読んでみようと自室の書棚から取り出した。今週末は『方丈記』を音読する予定。
過去ログ
■ 数日前に南木佳士の『生きのびるからだ』文春文庫を再読した。33篇のエッセイが収録されているが、その中では「身の世話を受けた記憶」が心に残った。
著者は二歳半の時に母親を亡くす。その後母方の祖母に育てられる。著者はこのことを繰り返し書いている。
**母に死なれた幼児は、ただそこに在るだけの、飯を食い、泣き、大小便をたれる存在だった。(中略)祖母はそういう身の世話をしてくれた。田で稲を育てて米の飯を食わしてくれ、衣類のほころびを繕ってくれ、コタツでうたた寝をしていれば、毛布をかけて首のところをしっかり押さえておいてくれた。勉強しろとも、偉くなれとも言わずに、ひたすら在るだけの身の世話をしてくれた。**(66頁)
このくだりを読んで、数年前の秋に亡くなった母親のことを思い出した。母親は自分の人生のすべてを家族のために使った人だった。
*****
そして、今日(18日)『阿弥陀堂だより』を再読した(過去ログ)。
村の広報誌に「阿弥陀堂だより」というコラムを書いている若い娘さんと阿弥陀堂で出合った主人公の孝夫。娘さんに「こんにちは」とあいさつをするも返事がない。「この娘さんは口がきけねえでありますよ」と、おうめ婆さんが孝夫に伝える。
この場面を読んで、あ、そうだった、と思い出し、涙が出た。
体力も気力も衰えているが、どうやら感情を抑制する力も衰えているようで、ますます涙もろくなっている。
**祖母と山で働き、木を生活の糧としていた頃には覚えるはずのなかった疎外感。ふところの深い自然に囲まれていながら、それらと無縁であることの寂しさ。そして、すべてのものが枯れ、死に向かってゆくのだと認識せざるを得ない晩秋のもの哀しい寂寥。**(206頁)
こんなくだりを読んで、また涙・・・。
やはり南木佳士の作品は秋に読むのがよい。
◎ 開智学校で開催中の特別展(重要文化財旧開智学校校舎創建140周年記念特別展)を見に出かけた。その時偶然にも、このマンホール蓋に出合った(10月16日)。
ふたりの女の子が手まりをついている絵柄のマンホール蓋。松本市のマンホール蓋では今まで下のように手まりだけを配したものしか見たことがなかった。上の絵柄について調べてみると、以前は松本駅前にもあったようだが、現在は開智学校の近く、ここにしか無いそうでとてもレア。
このカラー蓋には数種類あって、地が赤色という蓋はそれ程多くはないらしい。
マンホール蓋巡りにはまりそう・・・。