古本なのですが、臼井吉見編「柳田國男回想」(筑摩書房・1972年)というのがあり、その最後に【座談会・日本人の精神のふるさと】として中野重治・山本健吉・和歌森太郎・臼井吉見の四人の話が掲載されており刺激的です。
たとえば柳田國男の『俳諧評釈』について、和歌森さんはこう語っております。
「戦争中、成城の屋敷の中に炭焼がまをつくったりして、炭を自給する、非常にやるせない思いで毎日くらしておられた時期ですが、そのころ、われわれのメンバーは、旅も十分にできないし、そうおもしろい話題も出てこないから、ひとつ連句でも評釈しあおうじゃないかということで、例の木曜会といっていた研究会を、その会に代えたんですよ。その講義が『俳諧評釈』です、(全集)十七巻の。」(p328)
旅も満足にできないので、ひとつ『俳諧評釈』とは恐れ入ります。
そのおかげで、われわれは谷沢永一氏が「俳諧の評釈として読むに足るのは」とまず最初にあげている柳田國男著『俳諧評釈』を読むことができるのでした。
この座談会は、いろいろと刺激的なのです。山本氏はこう語っております。
「それから柳田先生は日本の文学――文学に限らないけれども――というのはむかしから都会の文学中心で、農村の生活、あるいは農民の生活を描いたものが非常に少ない、ということを言われたことがある。先生は、四冊の座右の書として、『今昔物語』『沙石集』『狂言記』『醒睡笑』をあげられたことがあるんです。これはわたしに口頭であげられたのですが、そういうふうな系譜の文学が非常に貧しいということね。・・・」
ここに出てくる「四冊の座右の書」が、気になるなあ。
そのあとに臼井氏がこうつなげております。
「いまの四つの本というのは、なるほどね。それは、『笑いの本願』とか『不幸なる芸術』、とくに『不幸なる芸術』にそのままつながるわけだ。『不幸なる芸術』は、要するに日本の現代文学が、笑いとウソを忘れて、貧相なものになったことを指摘していますね。あれは文学論だけでなく、教育論でもある。むしろ教育者に読ませたくて書いたもののようだ。」
つまり、笑いの系譜として日本の笑いをたどる道筋を、ここで示しているのじゃないか?
いま話題になっているらしい早坂隆著「世界の日本人ジョーク集」(中公新書ラクレ)とか米原万里著「必笑小咄のテクニック」(集英社新書)。あるいはその米原さんお薦めの「ユダヤ・ジョーク集」(講談社+α文庫)などの本と、この日本の笑いの系譜とをどのように結びつけてゆくかは、すぐれて現代的なわれわれの視点だと思うんです。
山本氏は、あとでこうつけ加えております。
「・・さっきぼくは四冊の座右の本をあげたけれども、『七部集』も座右の書で、しょっちゅう旅行にも持っていかれるし、そして芭蕉が実にものをよく知っているということに驚嘆されている、地方人の生活をね。だから、やっぱり『七部集』は民俗学的な立場から見ても、一種の宝庫なんでしょう。」
これで、我等が座右の書にすべき柳田國男推薦の五冊の本が並んだわけです。
さて、座談で臼井氏は、こう語っておりました。
「柳田先生は、ぼくなんか不思議に思うくらい、日本の詩というものを軽蔑しているわけですね。先生が責任者で中学校の教科書を編纂していますが、これははじめは、絶対に詩を入れることはならんとか言って、・・・」
ここでの詩というのは、たとえば島崎藤村の「椰子の実」というような詩のことです。
これは、おもしろいなあ。
戦後、桑原武夫は「第二芸術」を書いて、その最後に
「そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい、ということである。俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」
私なら、2006年現代には「国語教科書から現代詩を締め出してもらいたい」という刺激的な提案をしたくなります(ああ、それからついでに「早いだけが取り得の現代文学を教科書に並べるのもなし」にしてもらいたい)。柳田國男の『笑いの本願』『不幸なる芸術』が教育論であるという視点が私は刺激的に感じます。そこから、あらためて読み直してみたくなりました。といっても、いつになることやら。
たとえば柳田國男の『俳諧評釈』について、和歌森さんはこう語っております。
「戦争中、成城の屋敷の中に炭焼がまをつくったりして、炭を自給する、非常にやるせない思いで毎日くらしておられた時期ですが、そのころ、われわれのメンバーは、旅も十分にできないし、そうおもしろい話題も出てこないから、ひとつ連句でも評釈しあおうじゃないかということで、例の木曜会といっていた研究会を、その会に代えたんですよ。その講義が『俳諧評釈』です、(全集)十七巻の。」(p328)
旅も満足にできないので、ひとつ『俳諧評釈』とは恐れ入ります。
そのおかげで、われわれは谷沢永一氏が「俳諧の評釈として読むに足るのは」とまず最初にあげている柳田國男著『俳諧評釈』を読むことができるのでした。
この座談会は、いろいろと刺激的なのです。山本氏はこう語っております。
「それから柳田先生は日本の文学――文学に限らないけれども――というのはむかしから都会の文学中心で、農村の生活、あるいは農民の生活を描いたものが非常に少ない、ということを言われたことがある。先生は、四冊の座右の書として、『今昔物語』『沙石集』『狂言記』『醒睡笑』をあげられたことがあるんです。これはわたしに口頭であげられたのですが、そういうふうな系譜の文学が非常に貧しいということね。・・・」
ここに出てくる「四冊の座右の書」が、気になるなあ。
そのあとに臼井氏がこうつなげております。
「いまの四つの本というのは、なるほどね。それは、『笑いの本願』とか『不幸なる芸術』、とくに『不幸なる芸術』にそのままつながるわけだ。『不幸なる芸術』は、要するに日本の現代文学が、笑いとウソを忘れて、貧相なものになったことを指摘していますね。あれは文学論だけでなく、教育論でもある。むしろ教育者に読ませたくて書いたもののようだ。」
つまり、笑いの系譜として日本の笑いをたどる道筋を、ここで示しているのじゃないか?
いま話題になっているらしい早坂隆著「世界の日本人ジョーク集」(中公新書ラクレ)とか米原万里著「必笑小咄のテクニック」(集英社新書)。あるいはその米原さんお薦めの「ユダヤ・ジョーク集」(講談社+α文庫)などの本と、この日本の笑いの系譜とをどのように結びつけてゆくかは、すぐれて現代的なわれわれの視点だと思うんです。
山本氏は、あとでこうつけ加えております。
「・・さっきぼくは四冊の座右の本をあげたけれども、『七部集』も座右の書で、しょっちゅう旅行にも持っていかれるし、そして芭蕉が実にものをよく知っているということに驚嘆されている、地方人の生活をね。だから、やっぱり『七部集』は民俗学的な立場から見ても、一種の宝庫なんでしょう。」
これで、我等が座右の書にすべき柳田國男推薦の五冊の本が並んだわけです。
さて、座談で臼井氏は、こう語っておりました。
「柳田先生は、ぼくなんか不思議に思うくらい、日本の詩というものを軽蔑しているわけですね。先生が責任者で中学校の教科書を編纂していますが、これははじめは、絶対に詩を入れることはならんとか言って、・・・」
ここでの詩というのは、たとえば島崎藤村の「椰子の実」というような詩のことです。
これは、おもしろいなあ。
戦後、桑原武夫は「第二芸術」を書いて、その最後に
「そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい、ということである。俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」
私なら、2006年現代には「国語教科書から現代詩を締め出してもらいたい」という刺激的な提案をしたくなります(ああ、それからついでに「早いだけが取り得の現代文学を教科書に並べるのもなし」にしてもらいたい)。柳田國男の『笑いの本願』『不幸なる芸術』が教育論であるという視点が私は刺激的に感じます。そこから、あらためて読み直してみたくなりました。といっても、いつになることやら。