岡野弘彦歌集を読んだら、岡野氏の新聞の文章を思い浮べました。
2005年11月15日読売新聞夕刊。
そこには「紀宮さまを寿ぐ歌」が三首ならび。
文章は「紀宮さま御進講の日々」が綴られておりました。
その文章には「折口信夫から教えられた一つに、『和歌による感染教育』ということがあります。その要点は次のようです。」とあり
「平安時代、天皇や皇后になるはずの若い貴人には、宮中や藤原氏に伝わっている、力ある和歌や物語をお聞かせすることが大切であった。歌や物語そのものに魂が内在していて、歌ったり語ったりすると、その魂の力が働いて貴人の心に感染するのである。だから当時は、博士による漢才(からざえ)の知識教育よりも、女房による和歌や物語(神話)を通した感染教育が重んじられた。この魅力的な説は、日本文学史を深く見通して得た、折口信夫の卓見でした。」
この岡野氏の文章に気になっていた箇所がありました。
それは
「最近の数年は、宮さまの資質に一番ふさわしい、中世の『玉葉集』の歌をお講義してきました。」という箇所です。
「文学面での心の豊饒さでは、北朝系の勅撰集と言うべき『玉葉集』や『風雅集』の、冴えた自然観照や歌のしらべの美しさに心を引かれます。万葉・古今・新古今と、それぞれの時代の特色を示した和歌が、やがて到りついた一つの究極の歌風です。・・・」
そういえば、岡野氏の最新歌集に
木(こ)がくれの老い木の桜 まかり出て 玉葉集を説きやまぬかも
世の末の歌のみだれを憤る われの一途(いちづ)を 和(なご)めたまへり
(「バグダッド燃ゆ」p186~187)という歌がありました。
ところで、岡野氏の歌集のあとがきの最後に
「さらにここ数年間、丸谷才一さん、大岡信さんと連句を巻くことが多くなった。
学生のころに(折口信夫)チョウクウから『乙三』という俳名をつけてもらって、ただ緊張しながら付句を出していた私が、このありがたい連衆の引き立てによって、付合の気分と座の文芸の骨法とを心から楽しめるようになった。歌集の上にも、その影響がのびやかに現れているのを感じる。・・」とあります。
そこに名前の出てくる大岡信さん。
その大岡信さんの本に「瑞穂(みずほ)の国うた」(世界文化社)があります。
そこに玉葉集のことが出ておりました。
「(京極)為兼の歌は、その後に生れてくる俳句をあらかじめ先導したようなところがあって、景色、風物というもののとらえ方が、それ以前、平安朝の和歌などとはがらっと変わっているところが一番の特徴です。目の前に見える世界をモノの動きによってとらえるのです。いろいろなものが動くことによって生じる視覚的な新しい感動というようなもの、それを意識的にとらえようとした面があるのです。『玉葉集』『風雅集』の特徴は、自然界の動きの世界をとらえるという試みに、歌人たちがいわば集団的に挑戦したという点にあり、やがて起こる俳諧の分野でもそういう動きが絶えず出てくるわけです。そういう意味では現代俳句にもそうとう近しい世界がそこにあるわけです。」(p101)
ちなみに、大岡さんのこの本には「俳人・漱石の魅力」という文章も入っており、さらりと漏れなく漱石の俳句の視点を示しており、沼波瓊音の漱石感と同じ視点が、もっと丁寧に示されておりました。その最後の箇所。
「漱石は散文作家としてのイメージが非常に強いわけですが、漱石がなぜ散文を書けたかといえば、彼が俳句を作っていたからです。それもレトリック以前にアイディアで勝負するということを、小説を作るずっと前から考えていたから書けたのだと言っていい。」そして終りには
「漱石が後年、小説家としてあれだけの力量を発揮することができた根本のところには、俳句をたくさん作れたということがあったと私は考えているのです。」(p259)
ちょいと、ここから『玉葉集』を読みたくなるのですが、
私の興味はここまで。
2005年11月15日読売新聞夕刊。
そこには「紀宮さまを寿ぐ歌」が三首ならび。
文章は「紀宮さま御進講の日々」が綴られておりました。
その文章には「折口信夫から教えられた一つに、『和歌による感染教育』ということがあります。その要点は次のようです。」とあり
「平安時代、天皇や皇后になるはずの若い貴人には、宮中や藤原氏に伝わっている、力ある和歌や物語をお聞かせすることが大切であった。歌や物語そのものに魂が内在していて、歌ったり語ったりすると、その魂の力が働いて貴人の心に感染するのである。だから当時は、博士による漢才(からざえ)の知識教育よりも、女房による和歌や物語(神話)を通した感染教育が重んじられた。この魅力的な説は、日本文学史を深く見通して得た、折口信夫の卓見でした。」
この岡野氏の文章に気になっていた箇所がありました。
それは
「最近の数年は、宮さまの資質に一番ふさわしい、中世の『玉葉集』の歌をお講義してきました。」という箇所です。
「文学面での心の豊饒さでは、北朝系の勅撰集と言うべき『玉葉集』や『風雅集』の、冴えた自然観照や歌のしらべの美しさに心を引かれます。万葉・古今・新古今と、それぞれの時代の特色を示した和歌が、やがて到りついた一つの究極の歌風です。・・・」
そういえば、岡野氏の最新歌集に
木(こ)がくれの老い木の桜 まかり出て 玉葉集を説きやまぬかも
世の末の歌のみだれを憤る われの一途(いちづ)を 和(なご)めたまへり
(「バグダッド燃ゆ」p186~187)という歌がありました。
ところで、岡野氏の歌集のあとがきの最後に
「さらにここ数年間、丸谷才一さん、大岡信さんと連句を巻くことが多くなった。
学生のころに(折口信夫)チョウクウから『乙三』という俳名をつけてもらって、ただ緊張しながら付句を出していた私が、このありがたい連衆の引き立てによって、付合の気分と座の文芸の骨法とを心から楽しめるようになった。歌集の上にも、その影響がのびやかに現れているのを感じる。・・」とあります。
そこに名前の出てくる大岡信さん。
その大岡信さんの本に「瑞穂(みずほ)の国うた」(世界文化社)があります。
そこに玉葉集のことが出ておりました。
「(京極)為兼の歌は、その後に生れてくる俳句をあらかじめ先導したようなところがあって、景色、風物というもののとらえ方が、それ以前、平安朝の和歌などとはがらっと変わっているところが一番の特徴です。目の前に見える世界をモノの動きによってとらえるのです。いろいろなものが動くことによって生じる視覚的な新しい感動というようなもの、それを意識的にとらえようとした面があるのです。『玉葉集』『風雅集』の特徴は、自然界の動きの世界をとらえるという試みに、歌人たちがいわば集団的に挑戦したという点にあり、やがて起こる俳諧の分野でもそういう動きが絶えず出てくるわけです。そういう意味では現代俳句にもそうとう近しい世界がそこにあるわけです。」(p101)
ちなみに、大岡さんのこの本には「俳人・漱石の魅力」という文章も入っており、さらりと漏れなく漱石の俳句の視点を示しており、沼波瓊音の漱石感と同じ視点が、もっと丁寧に示されておりました。その最後の箇所。
「漱石は散文作家としてのイメージが非常に強いわけですが、漱石がなぜ散文を書けたかといえば、彼が俳句を作っていたからです。それもレトリック以前にアイディアで勝負するということを、小説を作るずっと前から考えていたから書けたのだと言っていい。」そして終りには
「漱石が後年、小説家としてあれだけの力量を発揮することができた根本のところには、俳句をたくさん作れたということがあったと私は考えているのです。」(p259)
ちょいと、ここから『玉葉集』を読みたくなるのですが、
私の興味はここまで。