長田弘詩集「一日の終わりの詩集」(みすず書房)に
詩「新聞を読む人」があります。その詩の最後はというと、
「・・・・・・
新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
ことばを探しているのだ。目が語っていた。
ことばを探しているのだ。手が語っていた。
ことばを、誰もが探しているのだ。
ことばが、読みたいのだ。
ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。」
この頃、新聞にいじめの記事が載りますね。
丁寧に読まない私ですが、安倍譲二氏の言葉が気になりました。
最初は、産経新聞2006年10月31日に「タフにおなりなさい」という談話。
つぎは、11月11日コラム「断」に「イジメは無くならない」という文章。
ここは、文章から引用してみます。
「テレビに出て来た偉い人は皆、『イジメは止めよう』とか『イジメを無くそう』なんて言っています。イジメの無い社会なんか、この世の中にあるのでしょうか?僕は、無くなる可能性はゼロだと思います。・・・・
69歳の僕は、国民学校なんて言っていた小学生の頃、疎開した先の学校で、生徒だけではなく、教師にまでいじめ抜かれました。東京で育ったということだけで、僕は同級生と上級生にいじめられ、軍隊から帰ったばかりだった教師にも、若い読者には信じられないでしょうが、拳骨で情け容赦なくぶん殴られたのです。東京に戻って、中学では仲間や上級生に恵まれて、とても平和で幸せな三年間を過ごしました。しかし、高校に上がると、なぜか自分がイジメっ子になりました。・・・・イジメは決して無くなりません。どこの世界でも年齢にかかわらず、イジメはあるのです。無くならないものを、無くそうというのは机上の空論で、イジメに耐える心を鍛えようと言うのが、正論だと僕は信じます。」
思い出すのは、コラムニスト山本夏彦氏が亡くなった時です。
追悼文が新聞に掲載されておりました。
やはり産経新聞なのですが、2002年11月2日に安倍譲二氏が「師匠・山本夏彦を悼む」と題して書いておりました。
そこからの引用。
「忘れもしない、師匠の山本夏彦が電話を掛けて下さったのは、今から18年半前の昭和59年の4月だった。65歳になった僕も、その時のことは、はっきり昨日のことのように覚えている。・・・・・『工作社の山本ですが、「室内」で連載して下さい』それまで長いこと、惨めで悪者ばかりに取り囲まれていた僕は、咄嗟に誰かの質の悪いいたずらだと思った。僕は自慢になんかならないことだが、昭和30年代から『室内』は読んでいる。家具とインテリアの一番歴史のある専門誌だということで、刑務所の木工場は『教育図書』として、定期購読していたからだ。若い頃から堀の中の木工場で、縦挽き電動鋸をぶん回していた僕は、毎月、編集兼発行人の山本夏彦が書く随筆を読んで、・・・舌を巻いていた。・・・・」
後半にはこんな箇所も、あります。
「『才能を発見して世に出すのが、私の役どころなんだ』野暮や芝居がかったことがお嫌いな師匠は、そんなことでも声を張りもなさらずに、ポツリとおっしゃったのだ。・・・・」
そして追悼の最後はというと、
「87歳だから天寿を全うしたのだとか、50歳だから残念だったということは、愛のある仲ではないのだ。最後まで現役として文章をお書きになった師匠を、僕は尊敬する。偉大だと心から思う。しかし、湧いて来る悲しさが止まりはしない。よくしてくださった方がお亡くなりになったのだ。」
ところで、長田弘さんの詩「新聞を読む人」のはじまりはどうだったか?
最後に、詩のはじまりを引用しておきます。
「世界は、長い長い物語に似ていた。
物語には、主人公がいた。困難があり、
悲しみがあった。胸つぶれる思いもした。
途方もない空想を、笑うこともできた。
それから、大団円があり、結末があった。
大事なのは、上手に物語ることだった。
何も変わらないだろうし、すべては
過ぎてゆく。物語はそうだったのだ。
・・・・・・・・ 」
ここから詩がはじまり、曲がった道を最後までたどるのでした。
詩「新聞を読む人」があります。その詩の最後はというと、
「・・・・・・
新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
ことばを探しているのだ。目が語っていた。
ことばを探しているのだ。手が語っていた。
ことばを、誰もが探しているのだ。
ことばが、読みたいのだ。
ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。」
この頃、新聞にいじめの記事が載りますね。
丁寧に読まない私ですが、安倍譲二氏の言葉が気になりました。
最初は、産経新聞2006年10月31日に「タフにおなりなさい」という談話。
つぎは、11月11日コラム「断」に「イジメは無くならない」という文章。
ここは、文章から引用してみます。
「テレビに出て来た偉い人は皆、『イジメは止めよう』とか『イジメを無くそう』なんて言っています。イジメの無い社会なんか、この世の中にあるのでしょうか?僕は、無くなる可能性はゼロだと思います。・・・・
69歳の僕は、国民学校なんて言っていた小学生の頃、疎開した先の学校で、生徒だけではなく、教師にまでいじめ抜かれました。東京で育ったということだけで、僕は同級生と上級生にいじめられ、軍隊から帰ったばかりだった教師にも、若い読者には信じられないでしょうが、拳骨で情け容赦なくぶん殴られたのです。東京に戻って、中学では仲間や上級生に恵まれて、とても平和で幸せな三年間を過ごしました。しかし、高校に上がると、なぜか自分がイジメっ子になりました。・・・・イジメは決して無くなりません。どこの世界でも年齢にかかわらず、イジメはあるのです。無くならないものを、無くそうというのは机上の空論で、イジメに耐える心を鍛えようと言うのが、正論だと僕は信じます。」
思い出すのは、コラムニスト山本夏彦氏が亡くなった時です。
追悼文が新聞に掲載されておりました。
やはり産経新聞なのですが、2002年11月2日に安倍譲二氏が「師匠・山本夏彦を悼む」と題して書いておりました。
そこからの引用。
「忘れもしない、師匠の山本夏彦が電話を掛けて下さったのは、今から18年半前の昭和59年の4月だった。65歳になった僕も、その時のことは、はっきり昨日のことのように覚えている。・・・・・『工作社の山本ですが、「室内」で連載して下さい』それまで長いこと、惨めで悪者ばかりに取り囲まれていた僕は、咄嗟に誰かの質の悪いいたずらだと思った。僕は自慢になんかならないことだが、昭和30年代から『室内』は読んでいる。家具とインテリアの一番歴史のある専門誌だということで、刑務所の木工場は『教育図書』として、定期購読していたからだ。若い頃から堀の中の木工場で、縦挽き電動鋸をぶん回していた僕は、毎月、編集兼発行人の山本夏彦が書く随筆を読んで、・・・舌を巻いていた。・・・・」
後半にはこんな箇所も、あります。
「『才能を発見して世に出すのが、私の役どころなんだ』野暮や芝居がかったことがお嫌いな師匠は、そんなことでも声を張りもなさらずに、ポツリとおっしゃったのだ。・・・・」
そして追悼の最後はというと、
「87歳だから天寿を全うしたのだとか、50歳だから残念だったということは、愛のある仲ではないのだ。最後まで現役として文章をお書きになった師匠を、僕は尊敬する。偉大だと心から思う。しかし、湧いて来る悲しさが止まりはしない。よくしてくださった方がお亡くなりになったのだ。」
ところで、長田弘さんの詩「新聞を読む人」のはじまりはどうだったか?
最後に、詩のはじまりを引用しておきます。
「世界は、長い長い物語に似ていた。
物語には、主人公がいた。困難があり、
悲しみがあった。胸つぶれる思いもした。
途方もない空想を、笑うこともできた。
それから、大団円があり、結末があった。
大事なのは、上手に物語ることだった。
何も変わらないだろうし、すべては
過ぎてゆく。物語はそうだったのだ。
・・・・・・・・ 」
ここから詩がはじまり、曲がった道を最後までたどるのでした。