和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

心惹かれるテーマ。

2006-11-18 | Weblog
ついついテレビをつけます。テレビを見てると、事件がおきていて、どなたかがそれについて語っているのでした。それが、事件の答えを出そう、答えを出そうとしている、ように見えます。
ということで、私が思い浮べたこと。
岡潔・小林秀雄対談のなかで
小林さんはこう語っておりました。
「ベルグソンは若いころにこういうことを言っています。
 問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。
 問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。
 この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。
 いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、
 物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。
 答えばかり出そうとあせっている。」
それに続けて岡さんは
「問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。」

それなら、どういう問題を出すのか?

ちょうど、ドナルド・キーンさんが読売新聞に毎週土曜日連載をしております。
その11月11日は、こうはじまっておりました。
「私は『日本のこころ』の研究を始めるまで、
 東山文化の中心的な役割に気づいたことがなかった。」
この日の言葉が気になったので、古本屋からドナルド・キーン著「足利義政」を取り寄せました。するとそのあとがきに
「当時中央公論新社の会長だった嶋中雅子さんと話していたら、次の本を是非社のために書いてくれ、と頼まれた。・・一応『どんな本がいいでしょうか』と訊ねてみたら、『日本の心はどうでしょう』という御返事が返ってきた。・・・難しいけれども心惹かれるテーマだと思われた。・・・」

その本文を、パラパラとめくっていると
茶道の村田珠光の手紙が引用されておりました。そこに
「心の師とハなれ、心を師とせざれ、と古人もいわれし也。」とあり、その訳として
「『心の師とはなるがよい、しかし、心を師にはするな』(心を導こうと努めるのはよい。しかし、心に従ってのみ進むのは良くない)と、昔の先徳もいわれたものである。」というのがありました。

ちょうど、産経新聞の11月17日に特集「座談会 日本の美を愛でる」というのが載っていて、そこで阿久悠さんが「周りの人間すべてが偏ったものの見方をしているとすべてが偏ります。だから、傾いていると注意する前に、自分が傾いていると思うことも大事なのではないでしょうか」と語っておりました。

足利義政といえば銀閣寺を思い浮かべますが、応仁の乱の乱世へと連想がつづきます。
戦乱が十年ほど続き、主戦場の京都はというと、ほとんど壊滅状態となりました。

戦乱の世といえば、私の連想が宮崎駿・養老孟司対談へと及びます。
そこで宮崎さんはこう語っておりました。

「職場で話していたんですが、俺たちは平安末期の貴族の館の片すみでアニメーションを作っているんだって。治安がいいだの、失業率が低いだのといって安心して自分探しなんて言ってるが、築地塀の外は、飢餓や天災、疫病やら野盗の横行する大乱の世界なんだって。築地塀に守られて、真面目につとめあげれば板敷きの部屋にお前だけ上がっていいとか、そのくらいの未来を約束されただけだって。生活に現実感がないとか、生きてる手応えが欲しいとか言っていたのが、築地塀がいよいよ壊れて、野盗は入って来るわ、舎人は持ち逃げするわ、荘園から物は届かなくなるわで、やっと世界と同じレベルになったのに、不安もないものだ。面と向って世界をよく見ることができるときじゃないか、ってまあ言ってるわけですね。・・・」(フィルムメーカーズ⑥「宮崎駿 責任編集養老孟司」キネマ旬報社」

そういえば、ドナルド・キーン氏の読売新聞連載は、山口晃氏が挿画を担当しておりました。山口氏といえば、平安絵巻・戦国絵巻みたいな日本画を現代風に描く才能がある方として、つとに知られます。
そのドナルド・キーン氏の連載10月28日には、司馬遼太郎氏が登場しております。

「1982年、朝日新聞の後援で『緑樹』をテーマに会議が開かれた。都会生活における緑の重要性が、発言者すべてによって力説された。さすがに、樹木の大量伐採を提唱する人は誰もいなかった。参加者たちは終了後、お礼に料亭に招待され、そこには鰻と、ふんだんな酒が彼らを待っていた。宴の途中で、座敷の上座にあたる席に座っていた司馬遼太郎が立ち上がり、下座にいる朝日の編集局長の方にやって来た。見るからに司馬は、かなりの酒を飲んでいた。彼は大きな声で、『朝日は駄目だ』と言った。・・司馬は続けた。『明治時代、朝日は駄目だった。しかし夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ』と。・・・私は自分が第二の夏目漱石のような大層な役割を果たすことなど、まったく不可能だということを知っていた。しかし一週間ほど経って、永井道雄(当時、朝日の論説委員だった)が私に告げたのは、朝日が司馬の助言に従うことに決めたということだった。・・・」

お酒といえば、そこで思い浮かんだのは、
司馬遼太郎。ドナルド・キーン対談の「日本人と日本文化」(中公新書)でした。
その対談は3箇所でおこなわれたそうで。司馬さんのはしがきには
「・・寒い日に、われわれは大和の平城宮址で出会った。それが最初の出会いで、夕刻から奈良の宿で酒を飲んだ。二度目は京都の銀閣寺で会った。参観者が居なくなってしまった夜で、銀沙灘のむこうの紺色の空に片鎌の月があがっていた。まるで芝居の書割のようで、中央公論社がわざわざ月を打ちあげたのではないかとおもわれるほどにおあつらえむきの風景であった。三度目は、江戸末期の蘭学の流行を象徴する大阪の適塾の赤茶けた畳の上で会った。・・・・」

こうして引用しながら、読む前に、読み返す前に思い浮かんだ印象を並べてみました。
たいていは、読んじゃうと、また別のことを思い浮べていたりするので。
最初の印象を大切にしたいと思い、書いておくわけです。
そうじゃなかった。たいていは、ここから先に本を読み進めることなく、
目移りして違う本へと脱線してしまうのが、いつものパターン。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする