和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柳田國男と敗戦・震災。

2006-11-19 | 地震
柳田國男は1875年(明治8年)7月31日生まれ。
大正12年(1923年)の関東大震災は数え年で49歳。
敗戦の昭和20年(1945年)は、71歳でした。
ちなみに、昭和37年(1962年)8月8日。心臓衰弱のため死去。88歳。

「柳田國男回想」(筑摩書房)に、臼井吉見の「炭焼翁の意気」という文が載っております。臼井吉見はその文の最後を「敗戦直後、僕が会った多くの人たちのなかで、七十歳を越えた柳田國男にくらべられるほど、いきいきとした感覚と気力にはずんだ人を、ついぞ見かけなかった。」としめくくっておりました。
また文中には
「翁の言うには、これからさき、自分が世の中のお役に立ちそうな仕事は三つほどある。」として雑誌を出そうとしている臼井氏に向って話されたそうです。
「一つは国民固有の信仰。これが、どんなふうにゆがめられているか、それを証拠をあげて明らかにしたい。もう一つは、人の心を和らげる文学。どんな貧しさと悲しみのなかにあっても、ときおりは微笑を配給してくれるような、優雅な芸術が日本にはなかったか、芭蕉の俳諧などはそれだったと思うが、そんな問題についても考えてみたい。
信仰と和気は、最小限度の心の栄養素と思うが、戦争に負けたいま、のんきすぎるというなら、それもいたしかたない。ただ第三のものだけは、そういってやり過すわけにはいかない。それは国語の普通教育、国語を今後の青少年にどう教えるのがいいかといういことだ。
よく口のきける少しの人と、うまく物がいえない多くの人が、入りまじるようなことになれば、どうなるか。みんなが黙りこくっていた時代よりも、不公平がひどくなるかもわからない。自由には均等が伴なわなくてはならない。・・・・」(p150)

これは敗戦の後に、復員して雑誌を出そうとしていた臼井氏に語った柳田國男でした。
それでは、関東大震災を聞いたときの柳田氏は、どのようであったか。
それについては、岩波文庫「木綿以前の事」の解説(益田勝実)に語られております。
そこには、「故郷七十年」からの引用がありました。さっそくその箇所にあたってみることにします。興味深いので、少し長くなりますが、ここでは朝日選書の「故郷七十年」の頁数を示し引用していきます。その「官界に入って」の章にあります。

「内閣の記録課長を四年ぐらいつとめていたため、私はまた別の方面の文献に、親しむ機会に恵まれた。内閣記録課長は別に内閣文庫に手を触れなくてもいい地位であるが、前任者の江木翼氏が、私に頼むのが名案だと建白して、内閣文庫の仕事が私にまわってきた。・・日本の本でも、明治になってから、伊勢の旧家の神官の家のものや、京都の社家の蔵書など、ここに収められたものがあった。一生かかって調べてみたら、さぞかし面白いだろうと思うものがたくさんあった。」(p239)
「私は本のことではずいぶん苦労をしたが、いちばん最後が内閣文庫であった。もう少し長くいたら、いろいろ私なりの考えの仕事があったが、何分兼任だったので、早くここと別れてしまった。この厖大な記録類の中に入ってつくづく思ったのは、書物というものは一生かかっても見終わることはないということであった。
農政などでも・・・書物だけで学ぼうとしたら、一生かかても足りない。そこでわれわれの今している学問が必要になるわけである。要点をつかみ、それを実地に即して調べて行く方が、文献だけを漁りまわしているよりは効果がありはしないだろうかということを、書物に埋れた結果、私は考え出したのである。」(p241)
「台湾から大陸にかけて大旅行をしたのは、たしか大正六年である。・・・
貴族院書記官長でありながら、十分な諒解もとらないで、長い大陸旅行をしたことが非常に私の人望を害してしまった。そしてだんだん役人生活を続けられない空気が濃くなって来た。その上、その翌年にも、私は同じようなことをしてしまったのである。・・大正八年までいるのに非常に骨が折れた。その年の下半期になると、親類の者までがもう辞めなければ見っともないなどといってきた。・・」(p241~246)
そうこうしているうちに、大正十年に国際連盟の仕事でジュネーブに行くことになります。そして、ヨーロッパで地震の知らせを聞くことになるのでした。

「大正12年9月1日の関東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐに帰ろうとしたが、なかなか船が得られない。やっと10月末か11月初めに、小さな船をつかまえて、押しせまった暮に横浜に帰ってきた。ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことをしておられないという気持ちになり、早速こちらから運動をおこし、本筋の学問のために起つという決心をした。」(p251)

その「本筋の学問」はどのようなものだったのか。
残念ながら、私はほとんど読んでいないのでした。
読まないまでも、せめて、読む態度で、参考になるかもしれないという箇所がありました。
柳田國男の著作の読み方として
筑摩書房「柳田國男回想」の最後の座談会で、おもしろい指摘がありました。
その箇所を引用して終ります。

【和歌森太郎】われわれの間でも、よく、あの先生の本は、とにかく電車の中なんかでは理解のできない本だ、ということを言いますね。
【中野重治】あれは、柳田さんの文章が、日本語のしゃべり方に即して書いてあるためなんじゃないかと思いますがね。このごろ日本では、外国の影響を受けて、点や丸の打ち方が、意味をきちっと限定していくやり方で書いている。柳田さんのはそこがちょっと違っている。日本人が日本語でしゃべっていく、その区切り区切りで点を打ったり丸を打ったりしていく。それでずっと理解していく人はわかるんだけれども、化学方程式のような文章のあれでいくと、かかり結びがわからなくなる点があるんですよ。
【山本健吉】柳田先生は非常に実証的で合理的な考え方をする方だけれども、『二二んが四』式の論理じゃないんですね。論理というものが非常に複雑に出てくるものだから、それを非常に書きほぐしていられるけれども、こっちがほんとうにじっくりかまえて読まないと、つい意味を取りそこねるという場合があります。柳田先生の全体の著作というのは、ほんとうは、大きな大系を持っているんだけれども、一編一編は非常に随筆的な発想になっているんですね。
   ・・・・・・・・・
【中野重治】柳田さんの仕事は、だれか、少し俗っぽくなってもいいから、少し強調して、もう一冊も二冊もうまく書かないと・・・。取り次ぎが必要ですね。


ところで、今年でた入門書のたぐいでは、山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)には、柳田國男の入門書は、残念取り上げられておりませんでした。谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)では、本の最初に柳田国男著「木綿以前の事」(岩波文庫)を紹介しておりました。わずか4ページほどで、この文庫を紹介しており。鮮やか。
コメント
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