和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

司馬葬儀委員長の弔辞。

2006-11-02 | Weblog
足立巻一は、昭和60年8月14日朝、神戸市内の病院で急性心筋梗塞のため亡くなりました。その足立氏の葬儀・告別式の際に、司馬遼太郎は葬儀委員長をかって出ております。
その時の弔辞は、どのような内容だったのか?
ちょうど山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)に、その様子を知る手がかりが引用されておりました。その引用の孫引き。

「司馬氏の弔辞は原稿なし、ぶっつけ本番という破格の形式で行われ・・・」

久米勲氏がその弔辞を、書きとめていたようで、それを引用しております。

「足立ツァン(司馬氏はこう呼びます)は、自己のない人だった。人のことを考える人だった。だから足立ツァンと会っていると、自分も足立ツァンになりたいと思うようになり、そうしようとする。しかし、やはり足立ツァンにはなれないことがあとでわかる。―――文学は自己を語るものだが、自己のない足立ツァンの作品が文学になりえたのは、己を無にし、昇華したところで書いたからだ」司馬氏の弔辞は五分以上つづき・・

このあとに山野博史さんは「虹滅の文学―――足立巻一氏を悼む」と題した、司馬遼太郎の新聞に掲載された文を引用して終っておりました。
その掲載の文から引用します。

「これは私一個の好悪(こうお)だが、どうにも自己愛の臭気にだけは耐えがたい。また自己の身体や精神に快感をもつ自己色情(ナルシシズム)にはやりきれなぬおもいがする。でありつつも、文学や絵画は、そういうものが醗酵の種子になっているのである。おそらくすぐれた作品は、いい蒸留酒がもとの植物の香気だけをのこすように、自己愛が変質しきって昇華してしまったものにちがいない。しかしその前に、人間そのものが自己愛離れしなければならないだろう。この点、三十余年のつきあいの中での足立巻一はみごとなものであった。一瞬もかれからその種の臭気を嗅いだことがない。そのくせ、若いころ国文法に熱中した自己を種子にして『やちまた』という評伝文学の新境地をひらき、さらには自分が属した小さな夕刊紙の生涯を『夕刊流星号』として長詩にした。」


以上が山野博史著「発掘 司馬遼太郎」から引用しました。
ちなみに、この本で取り上げられている顔ぶれは

 海音寺潮五郎
 源氏鶏太
 今東光
 藤沢桓夫
『近代説話』のひとびと
 富士正晴
 吉田健一
 大岡昇平
 桑原武夫
 足立巻一
 田辺聖子

と並びます。その田辺聖子さんのところでも足立さんが登場します。
それは司馬さんと田辺さんの会話を引用した箇所でした。

「田辺『いつまでもヘタやったらどうしょう・・・』
司馬『あンたは物書くのん、ほんまに好きな子ォや、いうて足立サンいうてはったデ。好きで書いとったら読者がついてくるわ』
足立サンといいうのは詩人の足立巻一氏である。私は三十年代のはじめに労働組合を母胎として出来た、労働者のための『大阪文学学校』へ半年、通ったことがある。足立サンは小説クラスの先生であったが、文学学校以外の場でも後進指導に熱心で、駿足を輩出せしめるというので『足立牧場』というアダナがあり、大阪の若い文学志望者たちはみな『足立サン』を慕っていた。・・・」


山野博史氏のこの本を読んだのですが、他では読めない貴重な側面に、丁寧な資料を発掘し、照明をあてております。これは、かけがえのない本なのだなあ、とあらためて思いながら、足立・田辺両氏の箇所を読んだのでした。
コメント
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