和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

文章速達法。

2010-11-07 | 他生の縁
たとえば、斎藤美奈子著「文章読本さん江」(筑摩書房・2002年)の最後に、
「引用文献/参考文献」として「文章読本・文章指南書関係」と「文章史・作文教育史関係」とにわけて列挙しておりました。
そこには、堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫・昭和57年)は、取り上げられておりませんでした。ちなみに、谷沢永一著「大人の国語」(PHP研究所・2003年)の最後にある「附録『文章読本』類書瞥見」にも堺利彦著「文章速達法」は掲載されておらない。

別な角度から、みていきましょう。
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)は、先の斎藤美奈子氏の本に登場しておりません。「大人の国語」の方には、中公文庫へ入るまえの清水幾太郎著「日本語の技術」という題で、入っておりました。


清水幾太郎著「私の文章作法」を、文庫へと入れるように薦めたのは、山本夏彦(どこかに自分が文庫へ入れるように薦めたと書いてあったのだけれど、それが見あたらない)。
関連する文は、山本夏彦著「愚図の大いそがし」・「完本 文語文」(どちらも文芸春秋)の両方に書かれております。たとえば、

「噺家は芸人である。芸人を芸術家より低いと思ってはならない。芸人のまねはしても芸術家のまねはするな。実は私だって文を売る芸人だと清水は言っている。」(「完本 文語文」p172)と夏彦氏は書いておりました。

さてっと、中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」には、最後の解説を「狐」さんが書いておりました。8ページほどの文の2ページ目に堺利彦氏が登場している。

「・・・大逆事件のとき偶然にも入獄していて連座を免れ、出獄後は『売文社』を設立して文章代作の商売を始めていた社会主義者、堺利彦の『文章速達法』である。堺は作文の要諦を『そのまま、ありのままにさらけだす』ことにあるとした。・・・ただし『文章速達法』の痛快さは、著者の強調する『そのまま、ありのまま』の文章法を、ほかならぬ著者自身がほぼ全篇にわたって裏切り、否定し、出し抜き、結局は堺利彦という書き手がすぐれて技巧的な文章家であることを平気で露呈しているところにある。・・・」(p198)


ちょいと脇道にそれますが、狐さんの解説では
「清水幾太郎が文章について霧が晴れるように平明に開かれた言葉を語る『私の文章作法』が文庫になった。私は拍手する。」

というのが最後のしめくくりでした。

斎藤美奈子著「文章読本さん江」で、参考にもされなかった『私の文章作法』であります。
まあ、読んでなかったのでしょう。しかたないのかなあ。

書誌学者たる谷沢永一氏の類書瞥見ではきちんと昭和52年清水幾太郎著「日本語の技術」と紹介されているのですが、普通の読者には、それが中公文庫の「私の文章作法」だと気づく方は、よっぽどの方しか、まあ、わからないでありましょう。いわく不親切。ちなみに文庫の「私の文章作法」には、「『私の文章作法』1971年10月潮出版社刊」と明記しておりますので、これだけだと、清水幾太郎の「日本語の技術」と「私の文章作法」とが同じものだとは(内容は書きかえがあるのですが)どなたもわからないでしょう。

ここで、堺利彦の文章の系譜というので、
うれしい記述が読めたのでした。
それが黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)。
ちょっと長くなりますが、おつきあいください。


「福沢諭吉がこの『文字之教 附録手紙之文』を書いたのは、まだ人々が丁髷(ちょんまげ)を切ってまもない時期で、もちろん、文例の手紙文は言文一致ではない。それでも、福沢は『難き字を用る人は文章の上手なるに非ず。内実は下手なるゆへ、ことさらに難き字を用ひ、人の目をくらまして其下手を飾らんとするか、又は文章を飾るのみならず、事柄の馬鹿らしくして見苦しき様を飾らんとする者なり』と述べている。
要するに、福沢は飾らずに平易な文章を書け、と主張したのだが、堺が『言文一致普通文』で指摘したのもまさに同じことだった。この『文字之教 附録手紙之文』を堺は読んでいたのではないか。というのも、堺は『予の半生』で『予は福沢先生より多大の感化を受けた事を明言して置く』とわざわざ断っているのである。
堺は小学校で福沢諭吉の『世界国尽(づくし)』を暗記して育った世代で、幼くして福沢の名前は頭に刻みこまれていた。しかも、福沢は豊前国の中津出身で、堺の父が十五石四人扶持だったように、中津藩士だった福沢の父は十三石二人扶持で、武士としての身分は低かった。偶然とはいえ、福沢諭吉も一時は養子になって、堺と同じ中村姓を名乗っていたことがある(『福翁自伝』)。同じ豊前人で、いまや日本を代表する偉人である福沢諭吉を、堺が意識していなかったはずはない。売文社の一員だった白柳秀湖もそれを裏づけている。秀湖は、自分が文筆人として啓発されたのは島崎藤村や堺利彦や山路愛山だったが、なお遡っては福沢諭吉の思想と文章だったと述べ、『福沢の文章と思想とを著者にすすめて呉れたのは堺利彦氏であつた。このことはあまり知られて居ぬが、堺氏は福沢の最も熱心な敬仰者の一人であつた』と回想している(『歴史と人間』)。・・・・」(p83~84)


「文章」という系譜をたどるときに、福沢諭吉から堺利彦へと続く流れを見逃しては、これからはいけない。ということに私はいたします(笑)。


おっと、「狐」さんこと山村修氏の著書「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)にも、言及しておかなければ。

そこでの第一章「言葉の居ずまい」の最後に「切れば血とユーモアの噴き出る文章術   堺利彦『文章速読法』」と題して紹介文が掲載されております。そのさわりをすこし引用。


「読んでいておぼえるのは、大正四年に出た文章入門書が、いまなお実用書として十分に通用する(!)というおどろきです。けっして古びていません。むしろ、みずみずしいくらい。それは清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書)のような文章指南のロングセラーと読みくらべてもわかります。」(p46)


最後にもう一度。
谷沢永一著「大人の国語」にも
斎藤美奈子著「文章読本さん江」にも
そのどちらにも、
堺利彦著「文章速達法」は紹介されておりませんでした。
ちなみに、清水幾太郎著「論文の書き方」は、どちらも
しっかりとはいっているのでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする