和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

堺のオヤジ

2010-11-14 | 古典
黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)に
幸徳秋水と堺利彦を比較した箇所があり、印象に残ります。
著者の黒岩さんの惹かれるポイントでもあるのでした。


「『山川均自伝』のなかに、当時の幸徳秋水と堺利彦を、とくに二人の人柄を比較した興味深い記述がある。山川によれば、若い人の間には幸徳崇拝者が多く、堺利彦は崇拝の対象とするには不向きな人だった。堺は、権威のあるものを求める傾向の強い青年たちには、物足りなさを感じさせた。つまり、秋水はカリスマとしての質素をもっていたが、堺にはそれがなかったということだろう。しかし、その先に続く文章に、私はむしろ堺の人間的な魅力を感じずにはいられなかった。」(p173)

こうして『山川均自伝』からの引用があります。そこを孫引き

「青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。そのくせ若い人たちの生活のことまでよく面倒をみるのは ―― これは一つには、堺さんの健康で精力的だったためでもあろうが ―― いつでも堺さんだった。私自身にしても、生活のために堺さんから金の援助をうけたことは一度もなかったが、この時期にも、またずっと後の時期になっても、ともかくなんとかして生活をしていけたのは、なにかしら堺さんが、ときどきに仕事を作ってくれたからだった。そして当時の事情では、仕事を作るということは、想像のできないほどむつかしいことだった。(中略)ともかく堺さんは、よく青年の面倒をみて、そのくせよく不平や文句を言われていた。」

こうして自伝からの引用の後に、黒岩比佐子さんはつづけます。

「『平民新聞』の廃刊後、たちまち何人かの失業者ができたが、山川もその一人だった。そこで堺は、知人がいた有楽社から『平民科学』という六冊の叢書を出す約束を取り付けてくる。・・・・吉川守圀はこの件について『困窮せる堺は有楽社に知人を訪ふて其処で得た幾何かの原稿料も仕事も後進に分与し、一切自身が総元締となつて同志の者の面倒を見た。堺は如何に困窮した場合でも我を忘れて能く後進の面倒を見、道を開いてやることを忘れなかつた』と述べている(『荊逆星霜史』)。
これは、大逆事件後に堺がやっていたこととまったく同じだといっていい。『売文社』という名称こそないものの、すでにこのころから売文社の事業は始まっていた。・・」(p174)

このあとに、黒岩比佐子さんは片山潜のことを書いておりました。
そこにある文章の箇所が気になりました。


「当時の運動の困難なことはどの社会主義にも共通だったが、各人に才覚の相違があり、インテリの社会主義者にとっては文筆で生活の資をうることがもっとも容易で、それ以外の道もなかった。そして、堺にせよ、荒畑寒村にせよ、大杉栄にせよ、それで生活できるだけの才能をもっていたが、片山は文章を書くのがまったく苦手だった、と隅谷三喜男氏は指摘している。つまり、堺らと違って、片山が売文業で生活を立てるのは不可能だったのである。・・・・山川均によれば、片山の日本流の英文はわかりやすかったが、日本文の原稿はなかなかの難物で、読みこなして別の文章に書き直し、三分の一くらいに圧縮しなければならなかったという(『山川均自伝』)。(p176~177)


黒岩比佐子には「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)という本があります。
その題名にも出ていますが「道楽」という言葉が、弦斎を語る際に大切なキーワードともなっておりました。この「パンとペン」にも偶然かもしれませんが、「道楽」という言葉が登場する場面がある。それは橋浦時雄が1964年に書いた「『売文社』の想い出」の回想の文中にありました。そこを引用。


「生活が安易に流れると半面に革命の殉道精神が勃動して来る、(中略)しかし堺さんはこうした高潔ぶった精神主義には冷ややかであった。『われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ、幸徳でも僕でも士族出で本物の社会主義ではない、本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で進められるのだよ・・・だからといってインテリの社会主義道楽が無価値で、真摯でないとはいわんがね、道楽で命を落とす人はいくらでもある・・・。』

こうして橋浦時雄の言葉を引用したあとに、黒岩比佐子氏は、こう書いておりました。

「これは堺でなければいえない言葉だろう。自分の社会主義運動は『インテリの道楽』だと自嘲しながら、決して単なる遊びではなくそこには真摯なものがあり、道楽は道楽でも『命がけの道楽』だ、と堺は強調しているのだ。命を懸けた以上は一生かけてやり抜く、という覚悟も感じられる。
」(p270)

このあと、黒岩比佐子氏は、もうご自分の私語を語ることなく、資料に語らせております。『橋浦時雄日記』『寒村自伝』と重ねて引用していく箇所に、堺利彦が掘り起こされている重要な一場面となっております。

これが第四章「冬の時代」前夜で、つぎに第五章「大逆事件」がつづきます。そして第六章が「売文社創業」。各章ごとに持ち重りがして、私など、それぞれの章が、一冊の本として読める内容だとおもうのでした。
コメント (4)
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