朝日の古新聞をもらってきて、ひらいていたら、
芸術新潮の広告が目にはいってきました。
芸術新潮11月号。
永久保存版大特集「いざ鎌倉」。
広告には鎌倉の大仏の写真が掲載されておりました。
町の本屋へ行くと、売り切れている。
ちょっと中身を見てみたかったのですが、残念。
結局、ネットでその雑誌を注文しました。
鎌倉の大仏が、どのように写されているのか、
その興味から。
そういえば、齋藤十一氏は、鎌倉明月谷に住んでおりました。
1965年結婚「鎌倉明月谷に新築した家に転居し、終生この家に住む」とあり、2000年に86歳で亡くなっております。2001年「鎌倉・建長寺龍生殿にて葬儀、建長寺塔頭・回春院墓地に眠る」と略年譜にあります。
さて、齋藤美和編の「編集者齋藤十一」(冬花社・2006年)に、野中昭夫氏の文が掲載されており、今回あらためて読み直しております。その途中から引用してみます。
「・・・昭和36年(1961年)の新年号から『芸術新潮』が『読む雑誌から見る雑誌へ』と大判化し、写真も多く掲載することになって、松崎国俊さんと二人で写真を担当することになった。週刊誌大になった『芸術新潮』の巻頭十五ページは[芸術のある風景]という写真特集シリーズでスタートした。・・・
三・四日撮影して、二、三十本のフィルムを抱えて夜行で帰京する。早朝の暗室に飛び込み、現像、引き伸ばしを終えて渡す。四階の編集室では、齋藤さんと山崎さんが写真について検討中。・・やがて山崎さんからの呼び出しがあって編集部に行くと、齋藤さんの姿はなく、『もう一度取り直しに行く。明日出かけるよ』の一言。この雑誌に来てからは、二度ならず三度の撮り直しをしたことすらあった。『齋藤さんは何をお望みなんでしょうか』。答えは『何をじゃないよ。どう撮るかだよ』。
さらに、『齋藤さんという方はご自分を読者の一人と考えているから、当たり障りのない写真では満足しない。雑誌を開いてハッとするような写真でないと読者は買ってくれない』とも。
このシリーズを撮り出した頃は、土門拳氏と入江泰吉氏のことがいつも頭の中にあって、お二人の魅力ある写真に近づきたいと思っていた。いや、追い越してやるなんて力んだ時もあった。だがこの思いは、撮り直し、撮り増しを何とか繰り返しているうちに、間違っていると考えるようになった。
先生方の作品を意識しても、決して同じ写真は撮れない。
この[芸術のある風景]のシリーズは十二月号で終わったが、この一年間で、京の寺社、洛中、洛外、西、東、上ルに下ル、大和国原、飛鳥に三輪山等々、多くを学ぶことが出来た。
齋藤さんは、私の写真になんの批評も指示もされず、ただ『もう一度行ってきな』とおっしゃるだけだった。・・・・私が現在も写真を撮り続けていられる原点は、この貴重な一年間の試練があったからだと確信している。齋藤さんはもう七回忌を迎えられる。・・・
『もう、何度でも行ってきな』って十一さんが今も呟いて下さっているように思える。」(p105~108)
ところで、今日「芸術新潮」11月号が届いたのでした。
ひらいて、鎌倉の大仏は、どこだとぱらぱらとめくっていると、
おいおい、p8とp9の見開き二ページに、大仏の左目のアップ。
あとは、p32とp33の見開き二ページに、「東側の真横から見た高徳院の大仏さま」が写されておりました。あとは古い写真が少々。
期待していたのに、え~。これだけ。と最初は思ったのです。
なんせ、雑誌が1500円です。でもp32の大仏だけで満足と、
しばらくしてから、猫背の大仏が身を乗り出して、参拝者の声を聞いてでもくれているような一枚の写真を、もう一度見ております。
ちなみに。新聞広告に掲載された大仏の写真は、雑誌では使われておりませんでした。
うん。よしとします。
p32~33だけで1500円。
さてっと、あなたならどうでしょう。
本屋でパラパラと開いてみたらいかがでしょう。
芸術新潮の広告が目にはいってきました。
芸術新潮11月号。
永久保存版大特集「いざ鎌倉」。
広告には鎌倉の大仏の写真が掲載されておりました。
町の本屋へ行くと、売り切れている。
ちょっと中身を見てみたかったのですが、残念。
結局、ネットでその雑誌を注文しました。
鎌倉の大仏が、どのように写されているのか、
その興味から。
そういえば、齋藤十一氏は、鎌倉明月谷に住んでおりました。
1965年結婚「鎌倉明月谷に新築した家に転居し、終生この家に住む」とあり、2000年に86歳で亡くなっております。2001年「鎌倉・建長寺龍生殿にて葬儀、建長寺塔頭・回春院墓地に眠る」と略年譜にあります。
さて、齋藤美和編の「編集者齋藤十一」(冬花社・2006年)に、野中昭夫氏の文が掲載されており、今回あらためて読み直しております。その途中から引用してみます。
「・・・昭和36年(1961年)の新年号から『芸術新潮』が『読む雑誌から見る雑誌へ』と大判化し、写真も多く掲載することになって、松崎国俊さんと二人で写真を担当することになった。週刊誌大になった『芸術新潮』の巻頭十五ページは[芸術のある風景]という写真特集シリーズでスタートした。・・・
三・四日撮影して、二、三十本のフィルムを抱えて夜行で帰京する。早朝の暗室に飛び込み、現像、引き伸ばしを終えて渡す。四階の編集室では、齋藤さんと山崎さんが写真について検討中。・・やがて山崎さんからの呼び出しがあって編集部に行くと、齋藤さんの姿はなく、『もう一度取り直しに行く。明日出かけるよ』の一言。この雑誌に来てからは、二度ならず三度の撮り直しをしたことすらあった。『齋藤さんは何をお望みなんでしょうか』。答えは『何をじゃないよ。どう撮るかだよ』。
さらに、『齋藤さんという方はご自分を読者の一人と考えているから、当たり障りのない写真では満足しない。雑誌を開いてハッとするような写真でないと読者は買ってくれない』とも。
このシリーズを撮り出した頃は、土門拳氏と入江泰吉氏のことがいつも頭の中にあって、お二人の魅力ある写真に近づきたいと思っていた。いや、追い越してやるなんて力んだ時もあった。だがこの思いは、撮り直し、撮り増しを何とか繰り返しているうちに、間違っていると考えるようになった。
先生方の作品を意識しても、決して同じ写真は撮れない。
この[芸術のある風景]のシリーズは十二月号で終わったが、この一年間で、京の寺社、洛中、洛外、西、東、上ルに下ル、大和国原、飛鳥に三輪山等々、多くを学ぶことが出来た。
齋藤さんは、私の写真になんの批評も指示もされず、ただ『もう一度行ってきな』とおっしゃるだけだった。・・・・私が現在も写真を撮り続けていられる原点は、この貴重な一年間の試練があったからだと確信している。齋藤さんはもう七回忌を迎えられる。・・・
『もう、何度でも行ってきな』って十一さんが今も呟いて下さっているように思える。」(p105~108)
ところで、今日「芸術新潮」11月号が届いたのでした。
ひらいて、鎌倉の大仏は、どこだとぱらぱらとめくっていると、
おいおい、p8とp9の見開き二ページに、大仏の左目のアップ。
あとは、p32とp33の見開き二ページに、「東側の真横から見た高徳院の大仏さま」が写されておりました。あとは古い写真が少々。
期待していたのに、え~。これだけ。と最初は思ったのです。
なんせ、雑誌が1500円です。でもp32の大仏だけで満足と、
しばらくしてから、猫背の大仏が身を乗り出して、参拝者の声を聞いてでもくれているような一枚の写真を、もう一度見ております。
ちなみに。新聞広告に掲載された大仏の写真は、雑誌では使われておりませんでした。
うん。よしとします。
p32~33だけで1500円。
さてっと、あなたならどうでしょう。
本屋でパラパラと開いてみたらいかがでしょう。