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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

解体中の本圀寺。

2019-10-15 | 古典
水濡れで、ページがひらけなくなった
宮本常一著「私の日本地図14・京都」を古本で注文。
それが届く。
この本、ほぼ各ページに写真があり、
それ用の用紙をつかっているためか、
乾いても、ページがめくれない(笑)。
こうなると、読みたくなるもので、
さっそく注文したというわけです。

届くとさっそく、気になっていた箇所をひらく。
本圀寺(ほんこくじ)について書かれた箇所でした。
引用。

「西本願寺のすぐ北に本圀寺という寺があった。
・・・りっぱな寺であった。本願寺が参拝者も多く
活気にみちているのに、この寺は何となくひっそり
としていた。しかし私のすきな寺で、時折ここに詣でていた。
・・・・その寺が次第に荒れてゆくのが目についた。
まず築土塀がこわれていった。よく見ると、それは築土ではなく、
竹でコマイをかいて、それに土をぬって壁にしてもので、
一角がくずれかかると、人びとが面白がってこわしていったようである。
寺があれてゆくのはこういうものであろうかと思った。・・
昭和41年6月・・ついでにいつものように京都の町をうろついて、
この寺の前まで来た。そのときはもう庫裡は空家になり、
また本堂は屋根瓦をおろし、土壁をとり、
柱と桁梁のみになっていた。・・・・
このようにしてこの地から一つ寺が消えてゆくのかと
暗然とさせられた。」

その時に宮本さんが撮影した写真が8枚(p105~111)に
載っているのが印象的でした。解体中の本堂や境内には
解体した瓦が丁寧に積み上げられていたりして、
骨格だけのお寺がそこにありました。
そして、文章はこう続いておりました。

「檀家を持たぬ寺は弱い。
経済的に支えてゆくものは何一つない。
寺の境内に特別の流行神や流行仏でもあればよい。
また文化財を持っていても力強い。そういうものを
何一つ持たぬ場合は生きのびることはむずかしい。
そして経済的な圧迫にたえかねてほろびていった寺も
多かったはずであり、本圀寺の現状もそれにあたるものであろう。

いま栄えている知恩院なども明治初年の窮迫は
甚しいものであった。明治20年頃、約43万円の
借金に山門を売るという話もあったという。
それを信徒の寄付によって立ち直ったという。
宇治の鳳凰堂が乞食のねぐらになったり、
奈良興福寺の五重塔が売りに出されたりしながらも、
民衆がもう一度寺の方を振り向いてくれることに
よって生きのびてきたのである。
・・・」(p105)

こうして解体中の本圀寺の写真を見ながら読むと
独特の感じを味わいます。

ちなみに、この本には附録マップがあり、
そこには、本圀寺もきちんと入っておりました。
コメント
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