水濡れで、ページがひらけなくなった
宮本常一著「私の日本地図14・京都」を古本で注文。
それが届く。
この本、ほぼ各ページに写真があり、
それ用の用紙をつかっているためか、
乾いても、ページがめくれない(笑)。
こうなると、読みたくなるもので、
さっそく注文したというわけです。
届くとさっそく、気になっていた箇所をひらく。
本圀寺(ほんこくじ)について書かれた箇所でした。
引用。
「西本願寺のすぐ北に本圀寺という寺があった。
・・・りっぱな寺であった。本願寺が参拝者も多く
活気にみちているのに、この寺は何となくひっそり
としていた。しかし私のすきな寺で、時折ここに詣でていた。
・・・・その寺が次第に荒れてゆくのが目についた。
まず築土塀がこわれていった。よく見ると、それは築土ではなく、
竹でコマイをかいて、それに土をぬって壁にしてもので、
一角がくずれかかると、人びとが面白がってこわしていったようである。
寺があれてゆくのはこういうものであろうかと思った。・・
昭和41年6月・・ついでにいつものように京都の町をうろついて、
この寺の前まで来た。そのときはもう庫裡は空家になり、
また本堂は屋根瓦をおろし、土壁をとり、
柱と桁梁のみになっていた。・・・・
このようにしてこの地から一つ寺が消えてゆくのかと
暗然とさせられた。」
その時に宮本さんが撮影した写真が8枚(p105~111)に
載っているのが印象的でした。解体中の本堂や境内には
解体した瓦が丁寧に積み上げられていたりして、
骨格だけのお寺がそこにありました。
そして、文章はこう続いておりました。
「檀家を持たぬ寺は弱い。
経済的に支えてゆくものは何一つない。
寺の境内に特別の流行神や流行仏でもあればよい。
また文化財を持っていても力強い。そういうものを
何一つ持たぬ場合は生きのびることはむずかしい。
そして経済的な圧迫にたえかねてほろびていった寺も
多かったはずであり、本圀寺の現状もそれにあたるものであろう。
いま栄えている知恩院なども明治初年の窮迫は
甚しいものであった。明治20年頃、約43万円の
借金に山門を売るという話もあったという。
それを信徒の寄付によって立ち直ったという。
宇治の鳳凰堂が乞食のねぐらになったり、
奈良興福寺の五重塔が売りに出されたりしながらも、
民衆がもう一度寺の方を振り向いてくれることに
よって生きのびてきたのである。
・・・」(p105)
こうして解体中の本圀寺の写真を見ながら読むと
独特の感じを味わいます。
ちなみに、この本には附録マップがあり、
そこには、本圀寺もきちんと入っておりました。
宮本常一著「私の日本地図14・京都」を古本で注文。
それが届く。
この本、ほぼ各ページに写真があり、
それ用の用紙をつかっているためか、
乾いても、ページがめくれない(笑)。
こうなると、読みたくなるもので、
さっそく注文したというわけです。
届くとさっそく、気になっていた箇所をひらく。
本圀寺(ほんこくじ)について書かれた箇所でした。
引用。
「西本願寺のすぐ北に本圀寺という寺があった。
・・・りっぱな寺であった。本願寺が参拝者も多く
活気にみちているのに、この寺は何となくひっそり
としていた。しかし私のすきな寺で、時折ここに詣でていた。
・・・・その寺が次第に荒れてゆくのが目についた。
まず築土塀がこわれていった。よく見ると、それは築土ではなく、
竹でコマイをかいて、それに土をぬって壁にしてもので、
一角がくずれかかると、人びとが面白がってこわしていったようである。
寺があれてゆくのはこういうものであろうかと思った。・・
昭和41年6月・・ついでにいつものように京都の町をうろついて、
この寺の前まで来た。そのときはもう庫裡は空家になり、
また本堂は屋根瓦をおろし、土壁をとり、
柱と桁梁のみになっていた。・・・・
このようにしてこの地から一つ寺が消えてゆくのかと
暗然とさせられた。」
その時に宮本さんが撮影した写真が8枚(p105~111)に
載っているのが印象的でした。解体中の本堂や境内には
解体した瓦が丁寧に積み上げられていたりして、
骨格だけのお寺がそこにありました。
そして、文章はこう続いておりました。
「檀家を持たぬ寺は弱い。
経済的に支えてゆくものは何一つない。
寺の境内に特別の流行神や流行仏でもあればよい。
また文化財を持っていても力強い。そういうものを
何一つ持たぬ場合は生きのびることはむずかしい。
そして経済的な圧迫にたえかねてほろびていった寺も
多かったはずであり、本圀寺の現状もそれにあたるものであろう。
いま栄えている知恩院なども明治初年の窮迫は
甚しいものであった。明治20年頃、約43万円の
借金に山門を売るという話もあったという。
それを信徒の寄付によって立ち直ったという。
宇治の鳳凰堂が乞食のねぐらになったり、
奈良興福寺の五重塔が売りに出されたりしながらも、
民衆がもう一度寺の方を振り向いてくれることに
よって生きのびてきたのである。
・・・」(p105)
こうして解体中の本圀寺の写真を見ながら読むと
独特の感じを味わいます。
ちなみに、この本には附録マップがあり、
そこには、本圀寺もきちんと入っておりました。