和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あれは不思議なものですよ。

2019-10-29 | 道しるべ
再読していて思い出したのですが、
鶴見俊輔の対談のなかに、
一読忘れられない箇所があったのでした。
そこを引用。

「昭和20年の大空襲のとき、私はその日に東京に帰ってきて、
大宮で汽車がとまっちゃったから、乗り換え、乗り換えして、
しまいに歩いて麻布のうちに戻ったんです。
雪がひざまで積もっていました。三月なんです。
ところが、向こうからものすごく陽気な、
笑いさざめくような声が聞こえるんです。それは
青山六丁目のあたりで、私は渋谷のほうから
歩いてきたんですが、麻布のほうからきて行き
会った人たちが明るい顔をしているんです。
それがうちを全部焼かれちゃった人たちなんですよ。
近所近辺、すべて焼かれちゃった人たちが歩いている。
それが一緒に焼けたときは、助け合いと連帯の気持が
底のほうから出てきて、何がなくてもお互いにいま
生きていることを喜び合う気持ですね。
快活な感情なんですよ。

それは亀井勝一郎も書いている。
『日月明し』というのですが、あのときの感動
というのは忘れられませんね。それはわずかな希望だな。
これから日本人が全体として暮らしが下がっていくときに、
みんなが一緒に貧乏になるならば、やはりあのときの
快活な助け合いの気分が帰ってくるんじゃないかという
希望です。あれは不思議なものですよ。・・・・」(p65~66)

これを読んだときは、1987年発行の本なので、私など、
簡単に本が届くようになることなど思いもしない、
ネット古書店での検索など知らない時代でした。
こんど読み返して、すぐにパソコンにむかって
検索したら
亀井勝一郎全集第15巻に収録された「日月明し」が
手に入る。うん。さっそく注文しました。

これで、鶴見俊輔の対談の背景が、ちょっとわかるかも(笑)。
ネット古書店で、古本を買えるありがたさを噛みしめる瞬間。

さて、この鶴見俊輔と野村雅一の対談には
こんな箇所もありました。
鶴見さんが、川喜田二郎氏を語った箇所です。

「彼はそれから文明論に向かうわけで、
その文明論は『季刊民族学』に『素朴から文明へ』
というのがありまして、ここではポンと飛んでこう言うのですよ。
『素朴よりも文明のほうがはたしてよいものとか、
価値が高いものかどうかなどということは、けっして
自明のこととして前提されてはならない』。
ここからあとは、評価がむずかしい問題だからわかりませんが、
彼は日本にはまだ見込みがあるのは、
日本はまだ文明じゃないからというんですよ(笑)。
素朴なものが残っているから、完全に文明化していくと、
小集団のなかでのやりとりがつぶされてしまうので、
血の通ったコミュニケーションがなくなってだめになる。
・・・」(p33~34)

「素朴から文明へ。価値的に文明のほうが高いと
考えないほうがいい。素朴から複雑へと変わっていって、
素朴が全部扼殺されたらそれで終わりではないか。
普通に相手を見て、相手がだれかを識別できるような、
その小さな集団で人間の創造は行なわれるので、
そこをこえてしまうと、一方的な伝達と模倣ばかりになって
しまって、生きがいとか愉快とか、レクリエーションという
意味での娯楽ですね、それから離れてしまう。
結局生きがいを喪失してしまうところに行くという、
そのおおまかな直観に共感します。・・」(p34~35)

うん。これで「亀井勝一郎全集」第15巻と、
季刊「民族学」27号・28号の「素朴から文明へ」を
同時に読める楽しみ。

さてっと、
「・・一方的な伝達と模倣ばかりになってしまって、
生きがいとか愉快とか、レクリエーションという
意味での娯楽ですね、それから離れてしまう。
結局生きがいを喪失してしまう」

というブログへとそれていかないように、気にしながら、
ネット古書店から、届く本を読みはじめられますように。






コメント (4)
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