宮本常一著「私の日本地図14 京都」の
読みなおしてみたかった箇所があります。
「本願寺というのは不思議な寺である。
京都の町の中に周囲を圧した規模で建てられておりつつ、
京都市民にはそれほど親しまれていない。・・・
この寺は地方の民衆の信仰に支持されている。
・・・・
東本願寺の信徒はだいたい京都から東、
西本願寺の信徒は京都から西というふうに区分されていて、
信徒の色彩にも差が見られ、
幕末の政治的な動きの中でも東本願寺は幕府、
西本願寺は勤皇をとなえて明治政府へも八万両を献金している。
それはそのまま地方民衆の心を反映していると言ってもよかった。
・・・・ 」(p96)
これからが面白いところなのですが、
つぎに行きます。p179~180をめくると、
写真が3枚興味深い。昔の時代劇には尺八を持つ
虚無僧がよく登場しましたが、今では
テレビの時代劇では見ることがなくなりました。
その虚無僧が家の前で尺八を吹いている後ろ姿。
畑のおば、が野良着で手拭をかぶり、その頭に荷を載せてる。
道者が通り過ぎる姿。
最後の道者の姿が忘れがたいのでした。
さて、民俗学者の宮本常一氏らしい視線が
味わえる箇所となっております。
「京都という町は単に京都市民によって
支えられた町ではなく、京都をとりまく
田舎の人びとによっても支えられていたのである。
本願寺が田舎の人たちに支えられているのもその一例であり、
京都の伝統的な産業も田舎の人たちによって
支えられているといってもいい。
私は時折、京都駅前の旅館案内所へいって
安い宿を紹介してもらうことがあった。
もう20年も前の話であるからそういう宿が
どうなっているか知らないが、尋ねていって
みるとたいてい町の中にあって、
外観も中も普通の町屋である。
部屋もふすまで仕切られているだけで、
たいてい合宿(あいやど)である。
昔の宿はみなこうであった。
その宿が京都の町の中には多かった。・・・
見知らぬ人といっしょに泊るのだが、
相客の方は何度もその宿にとまっていて、
宿の人とは心安くしている。
田舎から京都の寺へまいる人、
あるいは行商の人が多かった。
あるときは本願寺へまいる北国の人といっしょに
なったこともある。そしてその人たちと
夜ふけまで話したことがあった。
その中には80歳をすぎた老人も交っており、
そういう人から昔の話をきいていると心をうたれたり、
考えさせられたりすることが多かった。
北国人たちの真宗信仰は熾烈なものがあった。
徳の高い上人様が本願寺の大きな借銭を支払うための
寄付集めに北陸へ巡錫(じゅんしゃく)したことがある。
そのとき信者たちは上人のはいった風呂の湯を争って飲み、
またその中にういていた〇〇を今も肌身離さず身につけて
お守りにしているものがあるという。
今の人がきいたらあきれるようなことだし、
馬鹿もそこまでになるとつける薬がないとも言った。
それほどのことがわかっていて、
なお御本山まいりをしている。
自分の家は小さいあばら屋だが、
そういう家に住んでいて、
山のような大きな本願寺へ参るたびに
寄付していくという。
私はその言葉にひどく心をうたれた。
終戦後も本山には大きな借銭ができた。
このままだと本願寺がつぶれる。
信仰もつぶれるといわれて、
みな本気になって
寄付してその借銭を払った。
ほんとうに馬鹿だと思うが、
馬鹿なことにでも一生懸命になれるので
生きる張合があるのだと、
その老人は話してくれた。・・・」(~p181)
読みなおしてみたかった箇所があります。
「本願寺というのは不思議な寺である。
京都の町の中に周囲を圧した規模で建てられておりつつ、
京都市民にはそれほど親しまれていない。・・・
この寺は地方の民衆の信仰に支持されている。
・・・・
東本願寺の信徒はだいたい京都から東、
西本願寺の信徒は京都から西というふうに区分されていて、
信徒の色彩にも差が見られ、
幕末の政治的な動きの中でも東本願寺は幕府、
西本願寺は勤皇をとなえて明治政府へも八万両を献金している。
それはそのまま地方民衆の心を反映していると言ってもよかった。
・・・・ 」(p96)
これからが面白いところなのですが、
つぎに行きます。p179~180をめくると、
写真が3枚興味深い。昔の時代劇には尺八を持つ
虚無僧がよく登場しましたが、今では
テレビの時代劇では見ることがなくなりました。
その虚無僧が家の前で尺八を吹いている後ろ姿。
畑のおば、が野良着で手拭をかぶり、その頭に荷を載せてる。
道者が通り過ぎる姿。
最後の道者の姿が忘れがたいのでした。
さて、民俗学者の宮本常一氏らしい視線が
味わえる箇所となっております。
「京都という町は単に京都市民によって
支えられた町ではなく、京都をとりまく
田舎の人びとによっても支えられていたのである。
本願寺が田舎の人たちに支えられているのもその一例であり、
京都の伝統的な産業も田舎の人たちによって
支えられているといってもいい。
私は時折、京都駅前の旅館案内所へいって
安い宿を紹介してもらうことがあった。
もう20年も前の話であるからそういう宿が
どうなっているか知らないが、尋ねていって
みるとたいてい町の中にあって、
外観も中も普通の町屋である。
部屋もふすまで仕切られているだけで、
たいてい合宿(あいやど)である。
昔の宿はみなこうであった。
その宿が京都の町の中には多かった。・・・
見知らぬ人といっしょに泊るのだが、
相客の方は何度もその宿にとまっていて、
宿の人とは心安くしている。
田舎から京都の寺へまいる人、
あるいは行商の人が多かった。
あるときは本願寺へまいる北国の人といっしょに
なったこともある。そしてその人たちと
夜ふけまで話したことがあった。
その中には80歳をすぎた老人も交っており、
そういう人から昔の話をきいていると心をうたれたり、
考えさせられたりすることが多かった。
北国人たちの真宗信仰は熾烈なものがあった。
徳の高い上人様が本願寺の大きな借銭を支払うための
寄付集めに北陸へ巡錫(じゅんしゃく)したことがある。
そのとき信者たちは上人のはいった風呂の湯を争って飲み、
またその中にういていた〇〇を今も肌身離さず身につけて
お守りにしているものがあるという。
今の人がきいたらあきれるようなことだし、
馬鹿もそこまでになるとつける薬がないとも言った。
それほどのことがわかっていて、
なお御本山まいりをしている。
自分の家は小さいあばら屋だが、
そういう家に住んでいて、
山のような大きな本願寺へ参るたびに
寄付していくという。
私はその言葉にひどく心をうたれた。
終戦後も本山には大きな借銭ができた。
このままだと本願寺がつぶれる。
信仰もつぶれるといわれて、
みな本気になって
寄付してその借銭を払った。
ほんとうに馬鹿だと思うが、
馬鹿なことにでも一生懸命になれるので
生きる張合があるのだと、
その老人は話してくれた。・・・」(~p181)