鶴見俊輔の対談で、こんな箇所。
「・・私は東京に住まないで京都に住んでいるのは、
東京の風景を見るのがいやだから、
東京生まれだと耐えられないのね。
東京は私にとって一番の外国なんだ。
京都に住んでいると、小学校六年生の
ときに修学旅行で来たままの所が
まだあるからいい。・・・」(p56~57)
対談相手の、野村雅一氏は
「東京について最近ずいぶんいろいろ本が出ていますね。
ぼくは東京に行ったらすぐ逃げ帰ってくるほうで、
あまり関心もないのですけれど・・・・・
ぼくなんか『かなんなあ』という感じがするんです。
ぼくは大津のはずれに住んでいるのですけれど、
その大津はもちろんですが、京都の
たとえば京大のあたりでも、京大とか三高が
なかった時代の道が、今の道を見るだけでもわかりますね。
なにも専門の建築学者をよんでこなくても、だれでもわかる、
ここはこういう通りが前に走ってたんだなというのが、
お地蔵さんの場所とかでわかる。
東京とか大阪へ行くとどうしようもない。迷宮ですね。
それはもう風土などという言葉ではとても呼べない
ような環境になっているのですね。」(p61~62)
はい。以前ですが、
鶴見俊輔氏の対談本があると買っておりました。
ゆっくりと読めばよいものの、一度読んだら
次の本へと心移りをして、本という食べ物を、
よく噛まずに、ただ飲み込んでいたのでした。
そういえば、
この野村雅一氏との対談本は、
三題噺のエピソードとか、部分的に
残像として鮮やかな読後感があったなあ、
というくらいのことで、すっかり忘れておりました。
本棚にあったので、再読を始めたところです(笑)。
ちなみに、この対談本の最後には
「1986年5月7日、6月6日、京都・粟田山荘にて対談。」
とありました。
「・・私は東京に住まないで京都に住んでいるのは、
東京の風景を見るのがいやだから、
東京生まれだと耐えられないのね。
東京は私にとって一番の外国なんだ。
京都に住んでいると、小学校六年生の
ときに修学旅行で来たままの所が
まだあるからいい。・・・」(p56~57)
対談相手の、野村雅一氏は
「東京について最近ずいぶんいろいろ本が出ていますね。
ぼくは東京に行ったらすぐ逃げ帰ってくるほうで、
あまり関心もないのですけれど・・・・・
ぼくなんか『かなんなあ』という感じがするんです。
ぼくは大津のはずれに住んでいるのですけれど、
その大津はもちろんですが、京都の
たとえば京大のあたりでも、京大とか三高が
なかった時代の道が、今の道を見るだけでもわかりますね。
なにも専門の建築学者をよんでこなくても、だれでもわかる、
ここはこういう通りが前に走ってたんだなというのが、
お地蔵さんの場所とかでわかる。
東京とか大阪へ行くとどうしようもない。迷宮ですね。
それはもう風土などという言葉ではとても呼べない
ような環境になっているのですね。」(p61~62)
はい。以前ですが、
鶴見俊輔氏の対談本があると買っておりました。
ゆっくりと読めばよいものの、一度読んだら
次の本へと心移りをして、本という食べ物を、
よく噛まずに、ただ飲み込んでいたのでした。
そういえば、
この野村雅一氏との対談本は、
三題噺のエピソードとか、部分的に
残像として鮮やかな読後感があったなあ、
というくらいのことで、すっかり忘れておりました。
本棚にあったので、再読を始めたところです(笑)。
ちなみに、この対談本の最後には
「1986年5月7日、6月6日、京都・粟田山荘にて対談。」
とありました。