京都へは、修学旅行をふくめて
3回出かけました。
そのうち、2回は60歳を過ぎてから、
そのためか、京都を思うと、
あれこれ、考えが吸いよせられてゆくような、
そんな不思議な気がしてくるのでした(笑)。
さて、本のなかに京都という言葉があると、
もう、それだけで興味をもちます。
鶴見俊輔著「回想の人びと」(潮出版社)。
田村義也氏の装丁。
そのはじまりは安田武氏からはじまっておりました。
鶴見俊輔氏は安田武氏を語るのに際して、こうはじめております。
「京都に住んで51年になる。
この町には能楽堂が多い。
前を通りすぎたことは何度もあったが、
中に入ったことはなかった。
あるとき、たくさんの人たちの挨拶のなかで、
老齢の能楽師の声がよくとおるのに驚いた。
近代のベルカント歌唱法で自分をつくった
同じ年齢の歌い手ではむずかしいだろうとふと思った。
10年通った大学のすぐそばに河村能楽堂があり、
その家元が、よくとおる声で挨拶をした老人
(ただし私より若い)だった。
40年前、私がこの大学に勤めていたころには、
足を向けたことのないこの能楽堂に、
そのころから足が向くようになった。
私は東京の生まれで、東京に住むと、
他のことに眼をうばわれて、
能楽堂を近しく感じない。
京都に住むと、能は日常生活の近くにある。
夢幻能では、昔の人があらわれて
自分の見た同時代を語り、それをきく人は、
舞台の上では当時の人であるが、見ている私たちに
とってはききてもまた大昔の人である。
そういう形式が、すでに老人である私にとっては、
自然に感じられる。・・・・」
この文は9ページほどですが、
その最後の方からも適宜引用。
「終わりに近くなったころ、
彼は酸素テントの中に入って、
それでも見舞客と言葉をかわし、
自分では話せなかったので、
『ふくろのネズミだ』と書いて示した。
絶筆であろう。ここには
戦場のこだまがある。
井上八千代の80歳記念のおどりが、
三晩つづいて京都の祇園であったとき、
見に行きたいが行けないと彼は言い、
井上八千代さんとおなじ時代に生きたことが
自分の誇りだと言った。
それほどの人とおなじ京都に住んでいるのか、
と私は思い、この祝賀に彼にかわって参加した。
井上流一門の舞には、
家元の井上八千代はもちろんのこと気品を感じた。
戦地にいたころ彼のなかに育てたまぼろしが、
京都にはあるという思いこみが、おわりまで
彼のなかに生きつづけた。
祇園だけでなく、個人タクシーと彼は交際し
・・・・・」(p16)
3回出かけました。
そのうち、2回は60歳を過ぎてから、
そのためか、京都を思うと、
あれこれ、考えが吸いよせられてゆくような、
そんな不思議な気がしてくるのでした(笑)。
さて、本のなかに京都という言葉があると、
もう、それだけで興味をもちます。
鶴見俊輔著「回想の人びと」(潮出版社)。
田村義也氏の装丁。
そのはじまりは安田武氏からはじまっておりました。
鶴見俊輔氏は安田武氏を語るのに際して、こうはじめております。
「京都に住んで51年になる。
この町には能楽堂が多い。
前を通りすぎたことは何度もあったが、
中に入ったことはなかった。
あるとき、たくさんの人たちの挨拶のなかで、
老齢の能楽師の声がよくとおるのに驚いた。
近代のベルカント歌唱法で自分をつくった
同じ年齢の歌い手ではむずかしいだろうとふと思った。
10年通った大学のすぐそばに河村能楽堂があり、
その家元が、よくとおる声で挨拶をした老人
(ただし私より若い)だった。
40年前、私がこの大学に勤めていたころには、
足を向けたことのないこの能楽堂に、
そのころから足が向くようになった。
私は東京の生まれで、東京に住むと、
他のことに眼をうばわれて、
能楽堂を近しく感じない。
京都に住むと、能は日常生活の近くにある。
夢幻能では、昔の人があらわれて
自分の見た同時代を語り、それをきく人は、
舞台の上では当時の人であるが、見ている私たちに
とってはききてもまた大昔の人である。
そういう形式が、すでに老人である私にとっては、
自然に感じられる。・・・・」
この文は9ページほどですが、
その最後の方からも適宜引用。
「終わりに近くなったころ、
彼は酸素テントの中に入って、
それでも見舞客と言葉をかわし、
自分では話せなかったので、
『ふくろのネズミだ』と書いて示した。
絶筆であろう。ここには
戦場のこだまがある。
井上八千代の80歳記念のおどりが、
三晩つづいて京都の祇園であったとき、
見に行きたいが行けないと彼は言い、
井上八千代さんとおなじ時代に生きたことが
自分の誇りだと言った。
それほどの人とおなじ京都に住んでいるのか、
と私は思い、この祝賀に彼にかわって参加した。
井上流一門の舞には、
家元の井上八千代はもちろんのこと気品を感じた。
戦地にいたころ彼のなかに育てたまぼろしが、
京都にはあるという思いこみが、おわりまで
彼のなかに生きつづけた。
祇園だけでなく、個人タクシーと彼は交際し
・・・・・」(p16)