今西錦司全集別巻の月報に
今西武奈太郎氏の文「父、今西錦司」がある。
昨日読んで、夢にでもでてきそうな気がする。
うん。夢のような話なので現実の夢にはでてこなかった。
はい。その月報を引用することに。
「ここに粗末な書見がある。
三尺×一尺九寸、厚さ四分の杉板で、片隅に錦司のKと
大きく彫られている。・・・
父はこの机で中学から通して来た。・・・・
この軽便な机をあっちやり、こっちやりして勉強していた。
まア実に能く勉強に打ち込める人であった。
子供が舞々(まいまい)していようと眼中になかった。」
思い浮かべるのは、梅棹忠夫の『ひとつの時代のおわり』
と題する文でした。そのはじめのほうに梅棹氏が見た
読書する今西錦司がありました。
「今西自身はたいへんな読書家であった。・・・
探検隊の行動中においても、かれは読書を欠かさなかった。
大興安嶺やモンゴルの探検行でも、キャンプ地に到着して、
わかい隊員たちがテントの設営や食事の準備にいそがしく
たちはたらいているあいだ、今西はおりたたみ椅子に腰かけて、
くらくなるまで読書をした。・・・・・
探検隊でもつねに軍用の将校行李をたずさえていたが、
そのなかにはいっているのは大部分が書物だった。
朝になって若者たちがテントの撤収をおこなっているあいだも
かれは読書をつづけた。冬のモンゴル行においてもそうだった。
零下20度の草原で西北季節風がびょうびょうとふきながれるなかで、
かれは泰然として読書をつづけた。・・・」
(「フォト・ドキュメント今西錦司」紀伊國屋書店・2002年。p13)
もどって、家での読書はどうだったのかが、
「父、今西錦司」の月報の文のなかにあるのでした。
「あけっぴろげた縁側で父が机に向っている。
当然のこと虫は入り放題。音もなくすり抜けてゆく猫。
遊んでくれないと判っていながら、時折伺いに来る犬。
砂浴みのあと平然と座敷に上って来る鶏たち。
その跡に卵はないかと青大将・・・・。
西堀岳夫君が書いている。
『(当時の)今西の家には内と外との境がなかった』と。」
うん。ここは錦司氏を活写しているところなので、
つづけて引用しておくことにします。
「ありふれた小動物ではあったが、
思索を重ねる父にとって、僅かばかりの空間と、
ささやかな野趣は好ましいものであった。
樹木の枝を払うことと、犬を鎖に繋ぐことを極端に嫌った。
ために家人は、ご近所に対し随分気を使わねばならなかった。
落葉もそのまま、雑草もそのまま。いっそのこと貴船の奥に
でも書斎を移してくれれば、と思ったものだが、それは成らぬ
所であった。何故なら、鯉の洗いだの鱧(はも)のおとしだの、
と注文に応じられぬからである。
私にしろ初孫にしろ、抱いたことは一、二回に過ぎぬと豪語していた。
子供を肩車した写真も無くはないが、余り嬉しそうには見えぬ。
うまいモノは次々と平らげ、子供の喰い分など意に介さなかった。
ついついその手が出て、山の皆様から恨みを買った事も耳にしている。」
大家族のその後もでておりました。
「大正6年、中学3年にして、店を取り仕切って来た母を亡くした。
2年後の中学5年、大黒柱と頼む祖父が逝く。・・・・
父が『山』を意識するのもこの頃か。
そして大正14年、父の死。
平兵衛名のりて四代、百年余続いた家業が途絶する。
京都駅に呼び出された桑原さんが、待合室に佇む途方に暮れた
今西錦司の姿を活写しておられる。
不幸の都度、山にのめり込んでいった父は、
心機一転、軍籍に投じた(昭和6年、工兵少尉)。・・・・」
うん。このくらいにして、最後は桑原武夫氏の文を引用。
「・・大学を出てまもないころ、
朝の5時前に電話がかかった。いま七条駅の待合室にいる、
すぐ来てくれ、と力のない声で今西がいう。
初発電車をまって行ってみると、青い顔をして浮浪人たちの
なかから出てきたが、私を見て少し表情が明るくなり、
どうしたのだ、という私の問いには、ウンと答えただけで、
おおきに、もう帰ろう、と言った。
そして二人は北行きの電車に乗った。
あのころ、彼はよく沈鬱であった。
そうした気分から彼をいわば引きだす大きな力は、
陽子夫人によってあたえられたと思う。・・・・
そのあとでも、彼は突如、不機嫌になり、
半日も山のなかでものを言わぬことがあったりした。・・・」
(桑原武夫「今西錦司序説」)
はい。わたしはまだ「今西錦司全集」を読んでいない。
そのまわりを、ただウロウロしているだけなのでした。
今は、今西錦司山脈への水先案内人をさがすのでした。
とてものこと、一人では取付く手立てが見つからない。