和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「見納め」と「新発見」。

2021-03-21 | 詩歌
板坂元著「続 考える技術・書く技術」(講談社現代新書・1977年)に、
「拡散と集中」という箇所があったのでした。

「・・・何十何百と問題を持つことは、そこから何かを生みだす
ためのもので、やたらに情報をためこむだけに終ってはならない。

そういう意味で、拡散と集中ということを、たえず考えておくべきである。
新聞や雑誌を切り抜いたりカードをとったりするのは、拡散の段階のことで、
そのうちいくつかずつ自然に集中の段階に移るものができはじめるものだ。」
(p45)

このあとに、こうあったのでした。

「この拡散と集中をやっていると、本なり雑誌論文なりを読んでいて、
やっつけ仕事であるか年季の入った仕事であるかの見分けがつくようになる。

何か書くために短時間に金をつぎこんで取材をして作った本と、
拡散の中から自然に集中してでき上った本とは、
ちょっとページを繰っただけで分かるものだ。」(p46)

はい。どうして、こんな引用をしているかというと、
阪田寛夫著「まどさん」(新潮社・昭和60年)を読み終って、
ぼんやりしてたら、この板坂元氏の言葉を思い浮かべました。

いつも、パラパラ読みばかりしているので、
この「まどさん」みたいな年季の入った仕事の本を
読めることのしあわせ(笑)。
各章ごとに読み進み、今日最後にいたりました。
氷山の一角のような、まど・みちをさんの詩の
その見えない裾野を探っては、詩へともどって引用したり、
どなたにも、書けなかった、まどさんの沈黙へと踏み込んでゆく
ゆったりとした歩みが、まるで一部屋ごとに、ドアをあけ、
窓をあけはなってゆくような展開でした。

うん。それはそうとして、
ここには、最後の方に出てくる断片を引用。

「五年前のラジオ番組では、70歳のまどさんが、
自分がこのような見納め的な老人の目で、
老いた自分だけにとらわれた詩を書きながら、
それを子どもの詩でございますというのは、
インチキではないかと自戒して、次にように語っていた。

『私が最近書いているものは、
見納め的にすべての物を見ていると思います。
子どもにとって、それは逆に、
こんなこともあるのかと驚く、新発見であろうと思います。
見納めと新発見とでは、正反対です。

しかし、ぼんやり見すごさずに一所けんめいに見る点では、
まあ似ているのではないかと思います。
そう思うことに、しております。
そう思わなければ、とても書いて行けるものではないですから』」
(p198~p199)

うん。このあとに、まど・みちをの詩があるのですが、
ここでは、拡散してしまうので、残念、カットします。


コメント
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