長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社・2011年4月)
に窪田空穂(うつぼ)氏が歌われておりました(p103)。
大震災廃墟の東京をさまよひて歌を残しぬ窪田の空穂
この歌の前に小さく窪田空穂の歌を引用されておりました。
はい。窪田空穂(1877年~1967年)です。
恥かしのですが、読もうと思って古本で窪田空穂全集を買い、
その月報と、全集の一冊を読んだかどうかで、興味はほかに
移ってしまっておりました。本棚に、読まれなかった全集が
並べてあります。と白状したあとで、その際に読んだきりの
箇所をお気楽にたどってみます。
窪田空穂は明治10年に生まれ、昭和42年に亡くなっています。
大正12年関東大震災は、46歳くらいの時に経験しております。
大正15年(1926)に、歌集『鏡葉(かがみば)』があります。
その歌集に、関東大震災の歌はありました。
「9月1日の大震災に、我が家は幸にも被害をまぬかれぬ。
あやぶまるる人は数多あれども、訪ひぬべきよすがもなし。
2日、震動のおとろへしをたのみて、先づ神田猿楽町なる
甥の家あとを見んものとゆく。」
歌集の途中に、震災の歌がはいっておりました。
ここには、二首を引用。
「 飯田橋のあたりに接待の水あり、被災者むらがりて飲む」
とあり、そのあとの二首。
水を見てよろめき寄れる老いし人
手のわななきて茶碗の持てぬ
負へる子に水飲ませむとする女
手のわななくにみなこぼしたり
(窪田空穂全集第二巻・p52)
もう一箇所引用させていただきます。
日本経済新聞・昭和41年1月1日に掲載された
『九十歳賀スベシ』という題の文から、この箇所。
「・・
六十台になると、五十台は良かったなあと思った。
七十台になると、六十台は良かったなあという
嘆息が出たが、同時に諦めもついて来た。
人間の定命(じょうみょう)には限度がある。
七十台は植物でいうと、花が咲いて散り、実となる時だ。
どんな農夫でも、また植木屋でも、
その時になって肥料をほどこす者は無い。
無能は無能なりに、
相応した収穫をすべき時だと諦めがついて来たのである。
八十台はその延長であった。
人間七十台までだな、としみじみ思わせられた。
・・・・・」(p27「窪田空穂全集別冊」)
はい。窪田空穂の四十代の歌と、九十代の随筆を引用しました。
(文章の中の『台』には違和感がありますが、そのまま引用しました)