「荘子」を現代の詩を読むように、楽しめると、
つぎに思うのは、日本の詩で荘子みたいな詩を書く人は
だれだろうということでした。それはそうと、
たまたま、古本でこの「荘子」といっしょに買った本に
阪田寛夫著「まどさん」(新潮社・昭和60年)がありました。
ちなみに、こちらは古本で300円。帯つきで、初版でした。
うん。当時は、そんなに売れなかったのかなあ。
などと、思いながらパラパラとひらいていると、
戦時中に台湾にいた、まど・みちをの事が語られる箇所がありました。
「かみさま」という章に、それはありました。
「この時代のまどさんを知っている現地の人たちを訪ねて、
去年の夏、まどさんが書き抜いてくれた住所や電話番号を頼りに、
台湾へ渡った。・・・・昔を直接知る者としては、
ホリネス教会の副牧師だった廖春棋?(木辺に、右は基)さん
ただひとりが健在と分かった。
ものぐさな私が二年間ぐずぐずしていたむくいだが、
それでも電話口に出た廖さんが、元気な日本語で、
石田さん(まどさんの本名)には大恩があるから
明朝ぜひ逢って話したいと言ってくれたのが救いであった。」
(p99)
ところが、その晩に廖さんは心臓発作で入院される。
「数日後日本語の上手な長男からホテルに電話が入り、
ぜひ病院へ来てほしいと言われた。・・・・」
廖さん自身が戦争末期、国家試験を受けて医師の資格を
取った方なのだそうです。
「病院では、やはり点滴注射を受けていた廖さんが、
こんどはいきなりそれを引き抜いて、寝台にあぐらをかいた
から驚いた。・・・寝台を降りて歩きだした。
その部屋で聞いた話を、そのままの言葉で記す。
・・・・・・
・・・これから言うのは、私的なことだと断わって、
自分たちの結婚に母親が不同意であったことから、
『本島人の社会』で働かねばならない自分たちが、
台湾の家族制度と個人の自由をめぐって大へん苦しんだあげく、
遂に二人で家出をせざるを得なかった事情を説明した。
『その苦しい時に石田さんをお訪ねしたわけですよ。
台中と沙鹿の間の道路を建設されていたのですが、その時、
私たち夫婦が、落ちぶれたよるべのない姿でお訪ねしたんです。
そしたら、家内を女中のようにして、出張事務所に入れて下さったのです。
それはあとの話しですが、その時いちばん先に、
自分の持っていた新しい蚊帳を私たちに貸してくれて
―――住んでいたのは豚小屋だったのですが、
そんな所へ新しい蚊帳を貸して助けて下さって、
一層深い印象を与えられたわけですよ。あの時、私たちは、
もし石田さんがなかったらもうこの世に存在できなかった。
それほど苦しんでたわけですよ』
その後立直って国家試験に合格して医師となり、
『石田さん』が自分たちによくしてくれたように、
日本人が帰国する時によくしてあげようと、そのように
神さまが命じられたと思って、日本の敗戦後、やれる範囲内で
ただで薬を作って、困っている日本人に持たせて上げた。
『その時思ったのは、私たちがこうした事をできるわけは、
ただ石田さんが蔭におられたから、ということでした。
豚小屋にいる私たちに、買ったばかりの蚊帳を貸して下さった
のですから。あの時は涙が出ました・・・・』
椅子を腕を握りしめ、
顔を紅潮させて大声を出すので、
私はこの前の電話で発作を起こさせてしまったことを思い合わせ、
『力を入れずに話して下さい』と頼んだ。
『入れざるを得ないです!』
と廖さんはもっと大声を出した。・・・・」(~p102)
うん。このような方々の子孫の方々がベースとなって、
東日本大震災の際に、台湾からの一般の方々のご寄付の
多さにつながっていたのだろうと、つい思いを馳せてしまいました。