和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今西錦司の生れた頃。

2021-03-01 | 京都
河合隼雄著作集12「物語と科学」(岩波書店・1995年)。
この巻に、今西錦司と題する20ページの文が載っていました。
この巻の、巻末に著者自身による解題があり、今西錦司の文
についてでは、こうあります。

「今西錦司先生は、私の兄雅雄にとってはもちろんだが、
私にとっても大切な人である。私の考えている『人間の科学』
の研究に関する方法論という点で、先駆的な業績をあげ、
それを世に認めさせた人である。・・・・」(p333)

はい。ここには、河合隼雄氏による文「今西錦司」の
はじまりの箇所だけを引用してみることにします。

「今西錦司は京都の西陣の織元『錦屋』の長男として、
1902年1月6日に生まれた。錦司という名は屋号の一字を
とってつけられたものだが、それには当時織元のトップクラス
として栄えていた家の誇りと、家を継ぐべき長男への期待とが
こめられている。・・・・・

織元『錦屋』では、今西の生れた頃は、祖父母、父母、
その他の親類、店の人たちを合わせて30人ぐらいの大家族が
一つ屋根の下に住んでいた。このような大家族のなかで、
しかもその総領となる地位にあって育ったことは、
今西の学問形成に大きい影響を与えている。・・・・

『・・・
たとえばかれ(フロイト)の説だと、子どもが成長してゆく過程で
父親が母親を独占していることに反抗心を起こす、それによって
いままでの親への一方的な依存から独立心を持つようになる
というのだが、これは核家族を前提としたものであり、私(今西)
のように大家族で育った者には、そういうことは起っていない
のではないか』と述べている。
この指摘はたしかに重要なことである。

・・・極めて日本的な西陣の大家族のなかで育ったことは、
今西の学説に後述するような『日本的』な性格をもたせる要因と
なったことと思われるが、祖父は若いころに織物研究のために
フランスに行ったりして『進取の気性』に富んでいたとか、
父親は息子に対して『芸者の腰に巻くようなものを作らずに
もっと気のきいたことをしろ』などと言って、
老舗を継ぐ必要のないことをほのめかしたりしたとか、
・・・・・・

大家族と共に暮らしながらも、『そこからしばしば抜け出せる
場所の用意されていたことは私にとってしあわせであった』
と今西は語っている。

座敷に続いた庭で、幼い今西はヒキガエルの棲み家や
コオロギの隠れ家捜しに熱中した。また、上賀茂には
祖父の建てた別宅があり、そこは庭が広かったので、そこで
『人工の加わらない自然の片鱗』に接することもできたのである。

・・・・・中学時代に母親と祖父が相ついで死亡し、
父親は病気におかされたこともあって、織元の職をやめる。
今西は第三高等学校にすすむが、その卒業前に父親がガンで死亡する。
・・・・」(p241~243)

はい。これが河合氏による文のはじまりでした。
わたしは、もうここまでで満腹。
20ページの文は、ここからが本題にはいるのですが、
私の引用としては、ここまででいいや。

話題はかわるのですが、この河合隼雄著作集12の
月報のはじめに日高敏隆氏が文を書いておられて、
こちらも読ませるのでした。


コメント
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