柳田国男の指摘される俳諧を知らずに、
今まで、俳句など読んでいたのでした。
何周も遅れ、それにやっと気がついた。
そんなことを思うのですが、これって、
いつものことで、失敗は限りなくある。
失敗を書きこむブログネタは尽きない。
そんなことを思うと気が楽になります。
それでは、今まで私が触れていた俳句とは、
どの程度の理解だったのかと改めてひらく。
寺田寅彦に『夏目漱石先生の追憶』があります。
熊本第五高等学校在学中に、親類つづきの男が
夏目先生の英語をしくじり、『点をもらう』委員に
選ばれた寅彦の話からはじまります。
はい。俳句の話になる前が面白いので、
少し遠回りして引用してみます。
「初めてたずねた先生の家は白川の河畔で、
藤崎神社の近くの閑静な町であった。
『点をもらいに』来る生徒には断然玄関払いを
食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で
快く会ってくれた。そうして委細の泣き言の
陳述を黙って聴いてくれたが、もちろん点を
くれるともくれないとも言われるはずはなかった。
とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとで
の雑談の末に、自分は『俳句とは一体どんなものですか』
という・・・質問を持ち出した。それは、かねてから
先生が俳人として有名なことを承知していたのと、
そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ
発酵しかけていたからである。
その時に先生の答えたことの要領が
今でもはっきりと印象に残っている。
『俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。』
『扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、
それから放散する連想の世界を暗示するものである。』
『花が散って雪のようだといったような
常套(じょうとう)な描写を月並(つきなみ)という。』
『 ≪ 秋風や白木の弓につる張らん ≫
といったような句は佳い句である。 』
・・・・ 」
( p142~143 岩波少年文庫「科学と科学者のはなし」 )
最近になって本棚から
丸谷才一著「思考のレッスン」(文春文庫)をもってきてあったので、
身近な本棚においております。「思考のレッスン」は質問に答えて
ゆくような形式をとっているので何よりも読みやすい。
そこに、こんな箇所があったりする。
丸谷】 自分が読んだ本で、『これは大事だ』という本がありますね。
あるいは、一冊の本の中で、『ここは大事だ』という章がある。
そういうものは、何度も読むことが大切ですね。繰り返して
読んだり、あるいは何年か間隔をおいて読む。( p132文春文庫 )
『思考のレッスン』が、私に『大事だ』と思うので、何年かして、
間隔をおいて、読むことがあります。今回身近にありましたので、
パラパラとひらいていると『レトリック』という言葉が目につく。
それは『思考のレッスン』のレッスン①にでてきておりました。
吉田秀和さんの話に出てきておりました。その近辺から引用。
「・・そうしたら吉田さんが、とても面白がってね。
『丸谷さん、それはなぜそういうことになるかわかる?』
『どういうことですか。わかりません』
『それは、現代日本文明が、レトリックを捨てた文明だからなんですよ』
これには、教えられたと思いました。
つまり、かつては日本にもレトリックというものがあったのに、
明治維新でそれを捨て去ってしまった。
なにしろ江戸後期はレトリックの飽和状態みたいなものだから、
明治の人は江戸のレトリックを捨てたくて仕方がなかった。
ついでにレトリックそのものを全部捨ててしまった。・・・・ 」
( p53 文春文庫 )
はい。このあとに『白玉クリームあんみつ』の話になってゆきます。
それはそうと、レトリックがなくなった先の日本はどうなっていたか?
『思考レッスン』を端折って、レッスン⑤「考えるコツ」へと飛ぶと、
そこには、こんな箇所がありました。
「・・詩情、詩的感覚が、ものを考えるときに大切だと僕は思う。
・・・・・・・・・
人間がものを考えるときには、詩が付きまとう。
ユーモア、アイロニー、軽み、あるいはさらに
極端に言えば、滑稽感さえ付きまとう。
そういう風情を見落としてしまったとき、
人間の考え方は型苦しく重苦しくなって、
運動神経の楽しさを失い、ぎこちなくなるんですね。
・・・・ 」
( p219 文春文庫 )
ちなみに、レッスン⑥になると、
「歌仙的な論理のつなぎ方を参考にして書いて行くと具合がいいんです。」
として『猿蓑』の発句から四句目までを引用している箇所がありました。