『清く』ということで、
柳田国男の「女性と俳諧」が思い浮かぶ。
この文の中に出てくるのでした。
「小さな素朴な何でもないやうな言葉でも、心の底から
ほほゑましく、又をかしくもなることは幾らもあるのです。
女がその群に加はるといふことは・・・・・
人生の笑ひを清くする為にもしばしば必要でありました。
・・・・・・
私の見やうが偏して居るかも知れませんが、
俳諧に女性の参加することを可能にした、
芭蕉翁の志は貴く、又仰ぐべきものかと思って居ります。」
うん。先を急ぎすぎました。
『女性と俳諧』のはじまりから引用してみます。
「こなひだから気を付けて見て居りますが、
もとは女の俳人といふものは、絶無に近かったやうですね。
芭蕉翁の最も大きな功績といってよいのは、
知らぬうちに俳諧の定義を一変して、幅をひろげ、
方向と目標を新たにし、従ってその意義を深いものに
したことに在ると思ひます・・・・・
いはゆる蕉風(せいふう)の初期に於ては、
女性の俳諧の座に参加した者は、伊賀に一人、
伊勢に一人、それから又大阪にも一人といふほどの、
至って寥々たるものではありましたが、それすらも
談林(だんりん)以前の文化社会では、殆と全く
望まれないことでありました。
理由は至って単純で、つまり俳諧は即ち滑稽であり、
その滑稽は粗野な戦国時代を経過して、堕落し得る
限り下品になり、あくどい聞きぐるしい悪ふざけが
喝采せられ、それを程よいところに引留めることに、
全力を傾けるやうな世の中だったからです。
女がその仲間に加はろうとしなかったのは
当り前ぢゃありませんか。 」
はい。はじまりのところが肝心かと思いますので
もうすこし引用におつきあいください。
「それが芭蕉の実作指導によって、天地はまだこの様にも
広かったといふことを、教へられたのであります。
連歌(れんが)の一座はいふにも及ばず、
前の句の作者までが予測もしなかったやうな、
新しい次の場面が突如として展開して来るのを見て、
思はず破顔するといふ古風な境地に、やや軽い静かな
笑ひを捜し求めることが勧誘せられました。
是だったら女にも俳諧は可能である、といふよりも
寧(むし)ろ慧敏なる家刀自(いえとじ)たちの、
それは昔からの長処でありました。
歴代の女歌人などは、簾や几帳を隔てた応酬を以て、
よく顎鬚の痕の青い連中を閉口させて居たのです。
清少和泉の既に名を成した領域に、未来の閨秀(けいしゅう)
たちが追随し得ない道理は無かったのであります。」
うん。だいぶ引用をしちゃいました。
最後の、『清少和泉(せいせういづみ)の・・領域』といえば、
思いうかべるのは、古今和歌集の仮名序でした。
うん。最後も古今和歌集の仮名序から引用。
「 和歌(やまとうた)は、
人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。
・・・・
花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、
生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男(をとこ)女のなかをもやはらげ、
猛き武士(もののふ)の心をもなぐさめるは、
歌なり。 」
そこでですが、柳田国男は、
芭蕉がどこまで成就したか、
それを正確に推し量ります。
「 翁の願ひはそれが成就するならば、
俳諧がもっと楽しいものになるやうな願ひでありました。
そうしてそれは十分に成就しなかったのであります。 」
「 芭蕉が企てて五十一歳までに、為し遂げずに終ったことを、
ちっとも考へて見ようとせぬのは不当であります。
俳諧を復興しようとするならば、先づ作者を楽しましめ、
次には是を傍観する我々に、楽しい同情を抱かしめる
やうにしなければなりません。・・・ 」
( 柳田国男「病める俳人への手紙」から )
うん。どうやら、芭蕉の成就目標はというと、
「 力をも入れずして天地を動かし
目に見える鬼神をもあはれと思はせ
男女のなかをもやはらげ
猛き武士の心をもなぐさむる 」
そんな芭蕉の俳諧だったのだとするならば、
一代では、とうてい成就は無理だったのだ
そう柳田国男は推し量っていたのでしょう。
この感触で、また柳田国男を読んでみます。