けなし言葉の連発は、顰蹙を買いますが、
ほめ言葉の出し惜しみは人を萎縮させる。
『感動』という言葉は、どう使えばいい?
ちょうど、手元に置いてあった
谷沢永一著『いつ、何を読むか』(ロング新書・平成18年)から。
うん。谷沢さんは、そんなに褒めない方なのですが、
そういう方が、効果的にでも褒めるのは印象的です。
桑原武夫氏を語って
「・・・桑原武夫は統率者(オルガナイザー)および
随想家(エッセイスト)としてひときわ秀れていた。
・・・先達および知友の肖像(ポルトレ)は・・・
やはり人物描写を支える清純な畏敬の念は常に感動を誘う。
その最高傑作が、材に人を得た『西堀南極越冬隊長』では
なかろうか。・・・」(p46)
これは西堀栄三郎氏を紹介するために、ちょっとその
出だしで登場する桑原武夫です。さらりと『感動を誘う』
という言葉を書きこんでおりました。
そういえば、と本棚から取り出したのは、
桑原武夫の七回忌の集まりの記録を一冊にした本でした。
杉本秀太郎編『桑原武夫 その文学と未来構想』(淡交社・平成8年)
その中で杉本氏は15分ほどの話しをしておりました。
その中から引用。
「・・『詩(ポエジー)は人間の神話をつくる。
散文は人間の肖像(ポルトレ)をつくる』と。
・・・・桑原先生が・・・とりわけ散文の機能として
人間の肖像というものを描く、そのための散文が
とりわけ優れた作品として先生のお仕事の中に
残っているし、光っていると僕は思うんです。
・・・中でも光っていると僕が思うのは
狩野君山(直喜)先生について書かれた二つの文章、
それと『西堀南極越冬隊長』という西堀さんについて
書かれた相当長い文章、この三つがとりわけ光っているし、
何度読んでも感動する文章です。・・・・」(p79)
はい。杉本秀太郎氏の『感動』をつづけます。
杉本秀太郎著「ひっつき虫」(青草書房・2008年)。
この中に「この一冊」という箇所があって、その中に
「柳田国男『なぞとことわざ』(・・1952年10月初版)。
手もとにあるのは四版、55年6月の刊行。
新刊書店でこれを買った当時、私は京都の古本屋を
毎日のように回遊しては柳田さんの本を片はしから
買い集めていた。たちまち百冊を越えたが、やがて
『定本柳田国男集』(31巻、別巻5、筑摩書房)の
刊行がはじまった。
『なぞとことわざ』一冊は『中学生全集』中に収められてはいるが、
けっして程度を下げて書かれたものではない。初めてこの一冊を読んだとき
私はすでに24歳だったが、感動にはいまもおぼえがある。・・・」(p221)
はい。
『清純な畏敬の念は常に感動を誘う』、
『何度読んでも感動する文章です』そして、
『感動にはいまもおぼえがある』と、三つを引用しました。
つぎへ行きます。杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)。
ここに「第二芸術論のあたえたもの――桑原さんのこと」と題する
6ページほどの文が載っておりました。こちらは、『感動』はなし。
うん。ここを引用して、おしまいにします。
「桑原さんは芭蕉と蕪村を好み、このふたりの俳句なら
立ちどころに30くらいは口をついて出る程度によくご存じだった。
昔の俳句はもう少しましなものだったのに、
言葉の芸として当節の俳句はあんまりひどすぎる。
芸術などと気負わずに、傍目(はため)にももう少しは
見やすい遊びを見せてくれるならまだしもだが―――
第二芸術論の手きびしい調子のかげに隠されている桑原さん
の心を取り出せば、おそらくこういう独白になっただろう。
1982年の9月、私は・・出かける用があり、たまたま
パリ滞在中の桑原さんと何度かお会いした。10月に入ったのち、
帰国直前の桑原さんをホテルにたずねていくと、
トランクのうえに一冊の岩波文庫が投げ出してあった。
『この文庫、ほしかったら君にあげるよ』と言われて
手にとると、それは『芭蕉七部集』だった。
『あれ、ぼくもこれを持ってきています』と答えると、
驚いたような、咎めるような、しかしまた安堵したような、
照れたような、微妙な表情が、桑原さんの顔にしばらく浮かんでいた。」
(p199)
ここには、『感動』の言葉のかわりに『芭蕉七部集』がありました。
ちなみに、桑原武夫氏は1988年4月に亡くなっております。
杉本氏の、この文は1988年7月20日「アサヒグラフ」に掲載。
この文は、桑原氏への追悼文として書かれたもののようです。
追悼文の、題名を『 第二芸術論のあたえたもの――桑原さんのこと 』
としたことを、岩波文庫『芭蕉七部集』とともに思い浮べてしまいます。