和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大村はま。藤原てい。

2022-11-01 | 本棚並べ
新田次郎・藤原ていご夫婦。
というのは、気になりますが、
今回は、藤原てい・大村はま。
この接点を、ひも解くことに。

はい。古本で注文してあった
藤原ていエッセー集「生きる」(読売新聞社・昭和59年)。
これが届く。新田次郎が亡くなってからのエッセーのようです。
さまざまな新聞や雑誌の注文に答えたエッセーがまとめられて、
それを一冊にしたものでした。

目次からひろって、二つのエッセーを読んでみました。

 私の中の大村はま先生(国語通信)と
 女学生時代(信濃毎日・昭和58年10月)と

これだけ読んで、私は満足。この2つのエッセーから引用。

「ある席上で、
 『女学校で、質実剛健の気風で、私はきたえられましたからね』
 と話したら、同席の人達が、妙な顔をした。
 たしかに戦前の教育ではあるが、その当時の女学校は殆どが
 良妻賢母を目標に教育されていた。そんな中で、
 私の母校、諏訪高等女学校、つまり今の諏訪二葉高校は、
 特異であったかも知れない。

 木綿の着物に木綿のハカマをはき、素足に下駄ばきである。
 ズックのカバンを肩にかけて、よほど寒くならなければ足袋をはかない。
 寒風を切って、頬を真っ赤にしながら勇ましく登校していた。
 表面を飾ることは、内容の乏しい証拠だときびしく教え込まれ、
 ひたすらに、質素な生活をしていた。・・・」(p230)

これは「女学生時代」の始まりでした。4㌻ほどの文の終りも引用。

「あの時代からおよそ50年がすぎようとしている。・・・・
 ・・ことにあの敗戦直後の頃のみじめさ。
 三児を連れて北朝鮮を一年余り放浪している。
 寒さと飢えと、敵に追われる恐怖とにさいなまれながらも、
 私は生きようと、全身の力をふりしぼった。
 
 『もうだめだ』とは一度も言わなかった。

 ・・・その根底にあるものは、
 あの女学生時代に鍛え上げられた根性だと思う。
 つまり国語の先生は、単に国語を教えるのではなくして、
 国語を通して、人間を形成してくれたのだと、
 ただただありがたく思うだけである。 ・・・・・。 」(~p232)

はい。この古本を注文したのですから、忘れずに、
「私の中の大村はま先生」からも引用しておかなきゃ。

いきなり、はじめの方にこうあります。

「・・『来年も先生に教えてもらえなかったら、この学校をやめます』
 私は泣きながら、大村先生にそう訴えていた。
 
 『万一、担任にならなくても、先生の家へ勉強に来たらいいでしょう』
 先生はしきりにそう言って慰めてくれていた。・・・・

 ちょうど女学校一年生の終りの頃で、私はその一年間、
 学校をやめることを考えつづけていた。親にすすめられて
 入学した学校ではあったけれども、その生活は決して快適な
 ものではなかった。きびしい規則ずくめの日々。
 ましてや寄宿舎での友達とのつき合いのむずかしさ。
 それまでのように山の中を自由にかけまわり
 おてんば娘で通っていた私にそれは耐えられなかった。
 常に逃げ出すチャンスをねらいつづけていた。

 ・・・・・・・
 『勉強をしよう、大村先生がいるんだもの』
 そう考えるようになった。先生は国語の先生だった。

 ・・・・・・・やがて二年生になった。
 私は大村先生の担任からはずれていた。

 ・・・・その頃から私も、本気になって・・
 かなり勉強をしたといっていい。学校で不足の分は
 寄宿舎で夜に、あるいは朝まで。仲間たちが遊んでいる時間には、
 裏山の草の中で、私は本を読んだ。そして、土曜日の夜、
 外出の許される時間は、大村先生の下宿を訪ねた。・・・

 『あなたのこの字は、なんですか』
 先生は、まずその文字の書き方から、手を取って教えてくれた。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   」
                    ( p166~172 )


はい。ブツ切りの引用では、申しわけないのですが、
わたしは、これを引用するのがやっとこさ。ここまでにします。


コメント (4)
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