新田次郎・藤原ていご夫婦。
というのは、気になりますが、
今回は、藤原てい・大村はま。
この接点を、ひも解くことに。
はい。古本で注文してあった
藤原ていエッセー集「生きる」(読売新聞社・昭和59年)。
これが届く。新田次郎が亡くなってからのエッセーのようです。
さまざまな新聞や雑誌の注文に答えたエッセーがまとめられて、
それを一冊にしたものでした。
目次からひろって、二つのエッセーを読んでみました。
私の中の大村はま先生(国語通信)と
女学生時代(信濃毎日・昭和58年10月)と
これだけ読んで、私は満足。この2つのエッセーから引用。
「ある席上で、
『女学校で、質実剛健の気風で、私はきたえられましたからね』
と話したら、同席の人達が、妙な顔をした。
たしかに戦前の教育ではあるが、その当時の女学校は殆どが
良妻賢母を目標に教育されていた。そんな中で、
私の母校、諏訪高等女学校、つまり今の諏訪二葉高校は、
特異であったかも知れない。
木綿の着物に木綿のハカマをはき、素足に下駄ばきである。
ズックのカバンを肩にかけて、よほど寒くならなければ足袋をはかない。
寒風を切って、頬を真っ赤にしながら勇ましく登校していた。
表面を飾ることは、内容の乏しい証拠だときびしく教え込まれ、
ひたすらに、質素な生活をしていた。・・・」(p230)
これは「女学生時代」の始まりでした。4㌻ほどの文の終りも引用。
「あの時代からおよそ50年がすぎようとしている。・・・・
・・ことにあの敗戦直後の頃のみじめさ。
三児を連れて北朝鮮を一年余り放浪している。
寒さと飢えと、敵に追われる恐怖とにさいなまれながらも、
私は生きようと、全身の力をふりしぼった。
『もうだめだ』とは一度も言わなかった。
・・・その根底にあるものは、
あの女学生時代に鍛え上げられた根性だと思う。
つまり国語の先生は、単に国語を教えるのではなくして、
国語を通して、人間を形成してくれたのだと、
ただただありがたく思うだけである。 ・・・・・。 」(~p232)
はい。この古本を注文したのですから、忘れずに、
「私の中の大村はま先生」からも引用しておかなきゃ。
いきなり、はじめの方にこうあります。
「・・『来年も先生に教えてもらえなかったら、この学校をやめます』
私は泣きながら、大村先生にそう訴えていた。
『万一、担任にならなくても、先生の家へ勉強に来たらいいでしょう』
先生はしきりにそう言って慰めてくれていた。・・・・
ちょうど女学校一年生の終りの頃で、私はその一年間、
学校をやめることを考えつづけていた。親にすすめられて
入学した学校ではあったけれども、その生活は決して快適な
ものではなかった。きびしい規則ずくめの日々。
ましてや寄宿舎での友達とのつき合いのむずかしさ。
それまでのように山の中を自由にかけまわり
おてんば娘で通っていた私にそれは耐えられなかった。
常に逃げ出すチャンスをねらいつづけていた。
・・・・・・・
『勉強をしよう、大村先生がいるんだもの』
そう考えるようになった。先生は国語の先生だった。
・・・・・・・やがて二年生になった。
私は大村先生の担任からはずれていた。
・・・・その頃から私も、本気になって・・
かなり勉強をしたといっていい。学校で不足の分は
寄宿舎で夜に、あるいは朝まで。仲間たちが遊んでいる時間には、
裏山の草の中で、私は本を読んだ。そして、土曜日の夜、
外出の許される時間は、大村先生の下宿を訪ねた。・・・
『あなたのこの字は、なんですか』
先生は、まずその文字の書き方から、手を取って教えてくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 」
( p166~172 )
はい。ブツ切りの引用では、申しわけないのですが、
わたしは、これを引用するのがやっとこさ。ここまでにします。