藤原てい著「わが夫 新田次郎」(新潮社・昭和56年)。
これが本棚に並べてありました。
大村はま・藤原てい。この次は
新田次郎・藤原てい。を並べることに。
昭和55年2月15日に新田次郎が亡くなる。
その日の様子を藤原ていは記したあとに、
「出合い」と題しはじまっておりました。
はい。引用したくなりましたので以下に。
「早春の光の中で・・・・
今日は見合いの日である。
『今度こそは藤原さまだからね』と、
くりかえし母に云われていた。
わざわざさまをつけるのは、母が相手の家を尊敬していたからである。
それまでにも何回か見合いはしているのだが、
すべて失敗をしていた・・・・・
『ボク、藤原寛人(ひろと)と云います』
・・・
『両角(もろずみ)ていと申します、よろしくおねがいします』
そう云って出来るだけ丁寧に頭をさげた。・・・・
母は、先方の家と旧知にあった関係で、しきりに話し込んでいる・・
『諏訪はさむいですね』
『はい』
又、話は切れた。
それだけで、その日は終わった・・・・・
翌朝、母にせき立てられて、東京へ帰る相手を見送るために、
上諏訪駅へ出た。
『昨日は、失礼しました』
相手は母にそう云っている。ふと目が合った時に、
はじめて笑顔を見せた。・・そしていくらか、照れたような顔だった。
『今度は手紙を出しますから』
間もなく約束通りの手紙が来た。
『先日は失礼しました。今日の東京は北東の風、
風速五メートル、天気晴れ、ロビンソン風力計が、
春の空にせわしくまわっています』
全文がこれだけである。・・・・
私は返事に困った。思いあぐねている時に、再び手紙が来た。
『 根雪まだ はざまに白きふる里に
よもぎ送らむと野にいでにけり 』
この和歌一つだけ書いてあった。・・・・・
不満ばかりがつのるような手紙だった。
『よし、東京へ会いにゆこう』
そう意を決して、上京した。
次に『結婚』と題した文。
そのはじまりは
その年、昭和14年5月13日に私達は結婚をした。・・・
それと同時に夫は千葉県の布佐町(現在の我孫子市)
の測候所へ転任になった。・・・・
一応母の所へ帰ってみようと考えるようになっていた。
・・・母に逢って、話してみたくなった。
夫が書斎に入るのを見届けてから、かねて用意してあった
荷物を小脇にかかえて、台所口から出た。・・・
すべて内緒の行動である。・・・
夢中になって歩いた。その時、自転車の音が後でした。
『おーい、おーい、どこへゆくのか』
『うちへ帰るんです』
『それなら自転車に乗れ』
・・私は、自転車の荷台に乗った。
夫はいきなり廻れ右をして、今来た道を走り出した。
『私はうちへ帰りたいんです』
『うちはこっちだ』
このようにして、新田次郎との生活が語られはじめます。
うん。ここまでとします。