和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『荘子』という書物。

2022-07-23 | 本棚並べ
だいたい私は、本文が読めずに、
解説や、書評で満足するタイプ。


文庫の古本なのですが、
中国古典選12「荘子 内篇」福永光司(朝日新聞社)を
本棚からとりだしてくる。このあとがきは3ページ。
はい。『あとがき』を引用します。はじまりは

「私が中国哲学に興味をもち、この学問を専攻しようと決心したのは、
 『荘子』という書物のあることを識ったからであった。・・・ 」

このあとがきは、「昭和30年10月1日洛北北白川の寓居にて」
と最後に記されております。

あとがきに、戦争がでてきておりました。

「 私は昭和17年の9月に大学を卒業したが、
  卒業と同時に兵隊に徴集され、約5ヵ年間の
  軍隊生活を私の青春として過ごした。・・・・

  私は今思い出しても恥ずかしいほどの蒼ざめた
  恐怖を輸送船に乗せて内地を離れたが、その時、

  私が囊底(のうてい)に携えて海を渡った書物は、
  『万葉集』と、ケルケゴールの『死に至る病』と、
  プラトンの『パイドン』と、この『荘子』であった。

  ・・・・・・
  戦場の炸裂する砲弾のうなりと戦慄する精神の狂躁とは、
  私の底浅い理解とともに、これらの叡智と抒情とを、
  空しい活字の羅列に引き戻してしまった。

  私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、
  ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、
  その逞しい悟達のなかで励ました。

  明日知れぬ戦場の生活で、『荘子』は
  私の慰めの書であったのである。     」

 
「 終戦に一年半おくれて再び内地の土を踏んだ私・・・
 
  もう一度学究として・・歩こうと決意し・・再び郷里を
  離れるという私を見送って、年老いた父が田舎の小さな
  駅の冬空のもとに淋しく佇んでいた。・・・・・

  私の無気力と怠惰を嘲笑したのは、昭和26年5月19日のことであった。
  変わり果てた父の屍の手を取りながら、私は溢れ落ちる涙をぬぐった。
  ・・・黄色く熟れた麦の穂波のなかを火葬場の骨拾いから帰りながら、

  私は荘子の『笑い』のなかに彼の悲しみを考えてみた。・・・
  私にとって、『荘子』はみじめさのなかで
  笑うことを教えてくれる書物であった。・・・・・

  私のこのような『荘子』の理解が、
  十全に正しいという自信は、もとよりない。

  しかし私にとって、私の理解した『荘子』を説明する以外に、
  いかなる方法があり得るというのであろうか。・・・・・

  私としては、私のような『荘子』の理解の仕方もあるということを、
  この書を読まれる方々に理解していただければ、それで本望なのである。

  そしてもし、死者というものに、生者の気持が通じるものならば、
  私は歿(な)くなった父にこの拙い著作を、せめてものお詫びとして、
  ささげたいと思う。   」 ( ~p343 )


うん。以前にこの「あとがき」だけを読んだのですが、
満腹感で、本文を読まずじまい。本棚に並んでました。

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