和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「先生への弔辞」

2020-04-13 | 道しるべ
橋本五郎さんの、芳賀徹追悼文が印象に残ります
(読売新聞4月4日掲載)。
はい。文章が良いと、文中に本の紹介があれば、
つい、その本を手に読んでみたくなります(笑)。
それが、ネット古本で簡単に手に入るとなれば、
なおさら欲しくなる。それで古本をとりよせたのが
芳賀徹著『きのふの空』(中央公論美術出版)。

そのなかに「竹山道雄先生への弔辞」
(「諸君!」昭和59年9月)が載っておりました。
単行本で6頁ばかりの文です。

うん。そこから引用することに。

「先生は私どもから本や論文などをお送りすると、
やがてきっとお手紙を下さって、あの筆圧の強い、
意外に昔風の書体で、批評やらはげましやらを
書いて下さったのです。・・・」(p190)

「古きよきものを私たちに伝えて新しい世界に送り出そうと、
ほんとうに精魂を傾けて教育と研究に当っておられました。」

「時代がどのように動いていっても、先生を囲んで
お話ししていると、問題がはっきりと見えてきて、
そこを行くべき道さえ見とおされてくるような気がするのでした。」

「三十数年にわたる先生の教えと知的示唆とにお答えする仕事を、
私たちもようやくこれからお見せすることができるかと
思っておりましたのに、先生は足早に去ってしまわれた。」

こうして、橋本五郎さんが引用されていた
竹山道雄氏の言葉が、この弔辞に使われているのでした。

「時流を恐れるな、時流から隠遁するな、時流を見つめよ、
しかし時流に惑わされるな、時流をこえて人間と世界を思え、
そのために歴史を学べ、古典に触れよ、コレㇽリの音楽にも
海北友松の絵にも、神魂(かもす)神社の建築にも
おののく深い広い心をもて・・・・
先生は御著書を通じてこれからも日本人に、
世界の人々に、そう説きつづけてゆかれるでしょう。」
(p193)

うん。こうして追悼文の全文を読んでおりますと、
ひとつ、気になったことがありました。
『歴史に学べ、古典に触れよ』とあるのですが、
ふつう、私なら、こういう言葉を使うとなると、
『古典を読め』とかになるのですが、ここには
『古典に触れよ』とある。

以下それについて思い浮かんでくることがありました。
この弔辞のはじまりは

「先生に最後におめにかかったのは、ちょうど
ふた月前の4月30日でした。・・・・・・
私はその数日前に出たばかりの自分の著書を
先生に献上するために、その日うかがったのでしたが、
実はその本もいまから23年前、同じようにして鎌倉で
先生のお話をうかがっていたとき、先生がふと与えられた
ヒントから出発して、長い間右往左往して
ようやくできあがった研究でした。」(p189)

はい。この弔辞が書かれたのは昭和59年。
芳賀徹著『絵画の領分』は、昭和59年4月30日発行。

『絵画の領分』の、あとがきにそれはありました。

「あれは昭和36年の夏、鎌倉瑞泉寺で、
先生を囲む小研究会を催していたときだったろう。
本間長世や高階秀爾もいた席で、私が『プロシャにおける岩倉使節団』
について報告したのであったと思う。すると竹山先生は、
そのあとの閑談のなかで、金刀比羅宮で見て来られて
間もなかったらしい高橋由一について、『あれは面白いものですな』
といったことをなにか二言三言いわれたのである。

(念のため、いま古い手帖を探しだしてきて調べてみると、
はたしてそれは同年8月26日の土曜日。その日、平川祐弘と
私は信州蓼科の旅先から鎌倉の寺に半時間遅れて駆けつけたのであった。

『瑞泉寺ノ夕景絶佳。満月雲ナキ空ニ昇ル。料理ヨシ。
・・・竹山氏、高橋由一論他、明治問題ニツキ教示多シ』

とその日の私の手帖にはある。)

それがヒントとなって、私は同年秋には
すでに由一研究に懸命になっていた。・・・・」


はい。私はこのあとがきで、もう満腹(笑)。





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