和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

昭和58年の京都旅行。

2020-04-14 | 京都
芳賀徹著「きのふの空」(中央公論美術出版)。
そこに竹山道雄追悼文は、4つの文が掲載されておりました。
どちらにも『時流』という言葉に触れておられました。

平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)を
本棚からとりだしてくる。すっかり内容は忘れておりました。
あらためてひらくと、本文の最後に芳賀徹の弔辞を引用して
おられるのでした。
そのあとの、「あとがき」には、こんな箇所があります。

「文章を書くとは選ぶことである。
選ぶからこそめりはりもつく。人生も選ぶことである。」(p491)

そのあとに

「・・・世の一部の人の反感を過度におそれるならば、
当り障りのないことしか書けなくなってしまう。
それでは自縄自縛である。私は『竹山道雄と昭和の時代』を
率直にありしがままに書きたいと思っていた・・・」(p492)

あとがきの最後には、
竹山道雄氏の夫人保子さんの消息でしめくくられておりました。

「2008年・・・私どもの家に移り老を養っている。
新聞を見て『(平川)祐弘さんの文章はわかりやすくていい』
などと依子にいっている。また『テレビはつまらなくなったが、
国会中継だけは第二次安倍内閣になって品が良くなった』
などともいっている。本書がつつがなく刊行され満97歳の
竹山夫人の手に無事に届けばよいがと著者は祈っている。
竹山は『ビルマの竪琴』の「あとがき」で屍を異国にさらし、
絶海に沈めた若い人々の名をあげた。従弟の田代兄弟も
何の形見もかえってこなかった。・・・・・2013年2月24日平川祐弘」
(p494)

あとがきの次は、竹山道雄年譜。
亡くなる一年前の年譜には、こうありました。

1983(昭和58)年 80歳
『竹山道雄著作集』全8巻が福武書店から刊行された。
秋、夫人保子、娘依子と婿平川と一緒に京都へ二泊三日の旅をした。
日本芸術院会員に選ばれた。菊池寛賞を受賞した。


本文には、その京都についての記述もありました。
その箇所を引用。

「1983(昭和58)年『竹山道雄著作集』が完結した年の秋、
竹山夫婦と私たち夫婦と四人で京都へ行った。

竹山としては見納めのつもりであったろう。
東寺(とうじ)からはじまって三十三間堂、養源院、
清水寺、鳥辺野、六波羅蜜寺などを丁寧に見てまわった。

あれから30年近く経ったいま妻に
『あの時どこがいちばん印象に残った?』
とたずねたら『六波羅蜜寺』と依子は答えた。
私もそうだと思ったが、よくきいてみると
依子は鬘掛地蔵から、
私は空也上人像から感銘を受けたのだった。

人間は同じ六波羅蜜寺へ行き、同じ彫像を眺め、
同じ説明を聞いても、自己の主観にしたがって、
このように別箇の印象を記憶に留める。

いや同じ鬘掛(かずらかけ)地蔵を見ても、
新潮社版『京都の一級品』の正面から写した写真と
『竹山道雄著作集』第八巻の地蔵を左斜めから写した写真
ーーそれだと左手に握りしめた鬘がなまなましく浮び出て見えるーー
とでは印象が著しく異なる。

竹山は六波羅蜜寺の清盛像、運慶像、湛慶像にふれた後
『さらにここに驚くべき彫刻がある。それは空也上人の肖像である』
と次のように記述している・・・・」(p417)

はい。ここまでにします。

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