「安房震災誌」をひらくと、この震災誌の編纂方法が語られております。
まず、序文に大橋高四郎氏が
「 本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するのが
主眼で、資料も亦た其處に一段落を劃したのである。
そして編纂の事は、吏員劇忙の最中であったので、
挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにした 」
そのすぐあとには白鳥氏による「凡例」があり、そこにはこうあります。
「・・記述の興味よりは、事実の正確を期したので、・・・
敢て統一の形式をとらず、当時各町村が災害の現状そのものに
就て作成した儘をなるべく保存することに注意した。 」
さらに、第1編の大正12年9月19日調べの『震災状況調査表』の
各町村一覧表を掲げるその前の文に、白鳥氏はこう記しておりました。
「本編各章に掲ぐる編纂の資料は、各町村の被害状況を、
郡長から、各町村長に嘱託して、出来得る限り精確に、
而かも当時の実況を有りの儘に記述したるものを
基礎として・・・修正したといっても出来得る限り
各町村の報告を尊重して、その趣旨は一も変更したところはない。
従って地震そのものの大小よりも、
地震を感受したその土地の人々の主観が、
報告書中に幾分反射されてゐるところが全くないでもなかったが、
適当の程度に於て、之れを採用した。
蓋し此等の事情は、即ち全体の被害を表示する
本章の調査表によって、一見明瞭なれば、
事に害なきのみならず、却って当時各地方人の
その感受さを、その儘表現したものとも見られ、
且つ後日の参考ともなることであろう。 」
はい。このあとに続く「震災状況調査表」は
総戸数・全潰戸数・半壊戸数・焼失戸数・流失戸数
被害数百分比・死亡数・負傷数・・が、
各町村別に数値として、一覧表に並べられているのでした。
その一覧表の数値が並べられたあとから、
各町村から上がって来た報告文が、項目別に取り上げられております。
この記述からしても、
当時の各町村の『当時各地方人の感受さを・・』掬い上げていることが
わかるのでした。
それをふまえて、流言蜚語を、各町村がどのように
伝えられていたのか、どのように受け止められていたのかを
知る手がかりともなりそうです。それをうかがえる箇所を
ポツリポツリとひろってみます。
安房郡でも太平洋側で、勝浦の方へ隣接する天津町
「天津町にては交通上の被害はなかったが、
鮮人侵入の浮説で村民は多く家をはなれなかった。」(p203)
つぎに、東京湾側の勝山町。
「勝山町についても火災なく、海嘯の襲来も全く一時の流言に過ぎなかった。
然し、蜚語流言はその夕方から、人から人へと伝唱され、
次で鮮人の暴動、帝都の全滅、鉄道の惨状など伝へられ、
人心は一刻も安定を得られなかった。」
はい。勝山町のこの箇所は他の町村よりも文が長いので
以下に残りの全文を引用しておきます。
「 又、人々は海嘯の襲来を怖れて、はしたない米櫃を背負ひ、
古筵を手になどして、老も若きも大黒山に集った。
又田文山へも、天神山へも、付近から避難した。
そしてその夜はそこに夜を明かした。その時、
誰も彼も明日は宅に帰れるだろうかと語り合って居たが、
明日になっても、余震はまだ強烈であった。
かうした恐怖を抱いて次の一日も送った。
海潮は遠く渚から去った。海面は一丈も下った。
海嘯の襲来も殆んど謎から謎の中へと這入て行く。
不逞鮮人は金谷へ30人も上陸したとか、
東京では鮮人の為めに毒殺され、官庁や会社などは、
爆弾のために崩壊されたなど云ふ、
人々は不安と恐怖とが続いた。
さうして3日目になってもまだ宅へ帰ることが出来なかった。遂には
消防組、青年団、在郷軍人団などの手に護衛されて野宿をつづけた。」
( p210~211 第1編の第9章「海嘯及び火災」から )
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