『教科書でおぼえた名詩』という本があって、
発行所は文春ネスコとなっておりました。
1997年第一刷で、私が持ってるのは第11刷(2001年)。
このカバー表紙の写真が印象に残ります。
昔の臨海学校の様子を切り取ったような一枚。
海岸の浅瀬で、大きな黒い浮袋に9人の子供たちと
一人の大人が写っています。陸の方からカメラをむけているようで、
短くした坊主頭の子どもらはカメラ目線で笑っています。
背景では、子供たちが水のかけっこをしたり、沖には船。
( カバー写真・田沼武能:江ノ島海岸で遊ぶ子ら1950年 )
それはそうと、この本は
「昭和20年から平成8年までに日本の学校でつかわれた
中学・高校の国語の教科書・1500冊あまりから、
だれでも一度は耳にしたことのあるなつかしの
詩歌をよりすぐった愛唱詩歌集です。・・」
詩・俳句・短歌・漢詩・翻訳詩と並んで、237ページ。
詩のはじまりは、高村光太郎・宮沢賢治・島崎藤村とはじまり
現代詩の最後が、茨木のり子でした。
最初をめくると、こんな言葉ではじまっていました。
「すぐれた人の書いた文章は、それを黙読翫(がん)味するばかりでなく、
ときには心ゆくばかり声をあげて読んでみたい。
われわれはあまりに黙読になれすぎた。
文章を音読することは、愛なくてはかなわぬことだ。
島崎藤村 」
ちなみに、島崎藤村の詩は4篇掲載されている。
「小諸なる古城のほとり」「椰子の実」「初恋」「潮音」。
島崎氏のこの詩は、残念私は音読する気になれませんでした
ちなみに、茨木のり子の掲載された詩は2篇。
「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」。
「わたしが一番…」の詩について谷川俊太郎さんが、
「書き過ぎているのがもったいない。
最後の一節はいらない、というのが私の意見」
と言われるのを、もうずいぶん前ですが読んだことがありました。
最後の一節とは、「ね」でしょうか…。
小池昌代さんが「私もくどいとか、念押しはいらないと言われる」と言われているので、「ね」でしょうね。
昨夜は、「控えめな『ね』」評と思い合わせて何度か読んでみるのでしたが
(声に出したりしても)、どっちつかずです。
わかろうとする感受性、不足かも。自分の感受性ぐらい自分で磨けといわれそうです。
詩歌は韻文ですから唱えたいですよね。好きなものは尚更に。
私は自分の迷文でさえ声に出して読みながら手直しします。
大雨とか。夜間でもあり心配は重なります。
気をつけてお過ごしください。
2コメントありがとうございます。
昨日は、午前中は晴れていて、
午後から雨が降り出しました。
今日は通過たようで時々小雨。
だんだん晴れてくるようです。
参考になるKEIさんの指摘は、
どれもはじめて知る事ばかり。
はい『感受性』ということで、
今日はブログ更新することに。